シャルル・アメデ・ド・サヴォワ=ヌムール
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シャルル・アメデ Charles-Amédée | |
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ヌムール公 | |
在位 | 1641年 - 1652年 |
出生 |
1624年4月12日 フランス王国、パリ |
死去 |
1652年7月30日(28歳没) フランス王国、パリ |
埋葬 | フランス王国、アヌシー、ノートルダム・ダヌシー教会 |
配偶者 | エリザベート・ド・ブルボン |
子女 |
一覧参照
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家名 | サヴォイア家 |
父親 | ヌムール公アンリ1世 |
母親 | オマール女公アンヌ・ド・ロレーヌ |
シャルル・アメデ・ド・サヴォワ=ヌムール(フランス語: Charles-Amédée de Savoie-Nemours, 1624年4月12日 - 1652年7月30日)は、ヌムール公(在位:1641年 - 1652年)、フランスの軍事指導者。サヴォイア公妃マリー・ジャンヌとポルトガル王妃マリー・フランソワーズの父[1]。
生涯
[編集]シャルル・アメデは3代ヌムール公アンリ1世(1572年 - 1632年)とアンヌ・ド・ロレーヌの息子で、1641年に死去したヌムール公ルイの弟である[2]。
1645年にフランドル軍に加わり、翌年にはコルトレイク包囲戦で軽騎兵を指揮した。1652年にはフロンドの乱に参加し、ブレノーおよびフォーブール・サンタントワーヌで戦い、負傷した[3]。
1643年7月11日にルーヴル宮において、フランス王アンリ4世と愛妾のガブリエル・デストレの息子ヴァンドーム公セザールの娘エリザベート・ド・ブルボンと結婚した。エリザベートの母はメルクール公フィリップ・エマニュエルの娘で裕福な女子相続人のフランソワーズ・ド・ロレーヌ(1592年 - 1669年)であった。
シャルル・アメデには2人の娘、3人の息子、そして性別が記録されていない死産の子供がいた。しかし成人したのは2人の娘だけであった。
- マリー・ジャンヌ(1644年 - 1724年) - "ヌムール嬢"、1665年にサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世と結婚[2]。
- 死産
- マリー・フランソワーズ(1646年 - 1683年) - 1666年にポルトガル王アフォンソ6世と結婚(1668年婚姻無効)、その後アルフォンソ6世の弟で摂政のペドロと再婚した[2]。
- ジョゼフ(1649年)
- フランソワ(1650年)
- シャルル・アメデ(1651年)
シャルル・アメデは1652年に義弟のボーフォール公フランソワ・ド・ブルボンによって決闘で殺された[4][5]。シャルル・アメデの弟でランス大司教であったアンリは、ヌムール公の称号を引き継ぐために聖職者の道を断念した[2]。
脚注
[編集]- ^ Lipp 2011, p. 64.
- ^ a b c d Oresko 2004, p. 18.
- ^ この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Nemours, Lords and Dukes of, s.v. Charles Amadeus". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 370.
- ^ Oresko 2004, p. 17.
- ^ Commire & Klezmer 2001, p. 388.
参考文献
[編集]- Oresko, Robert (2004). "Maria Giovanna Battista of Savoy (1644-1724): daughter, consort, and Regent of Savoy". In Campbell Orr, Clarissa (ed.). Queenship in Europe 1660-1815: The Role of the Consort. Cambridge University Press. pp. 16–55. ISBN 0-521-81422-7。
- Commire, Anne; Klezmer, Deborah (2001). Women in world history: a biographical encyclopedia. Volume 10. p. 388
- Lipp, Charles T. (2011). Noble Strategies in an Early Modern Small State: The Mahuet of Lorraine
関連項目
[編集]ウィキメディア・コモンズには、シャルル・アメデ・ド・サヴォワ=ヌムールに関するカテゴリがあります。
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