シェール・アフガーン・ハーン

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シェール・アフガーン・ハーンペルシア語:شيرافگن خان, Sher Afgan Khan, 生年不詳 - 1607年5月20日)は、北インドムガル帝国の后妃ヌール・ジャハーンの前夫。シェール・アフガーンとも呼ばれる。もともとの名をアリー・クリー・ハーン(Ali Quli Khan)といった。

生涯[編集]

Tomb of Sher Afgan Khan

もともと、アリー・クリー・ハーンはサファヴィー朝の君主イスマーイール2世に仕えていたが、その死後にイランからインドと移住した[1]

その後、ムガル帝国の皇子サリーム(のちのジャハーンギール)に仕え、メーワール王国との戦争での軍功により、「シェール・アフガーン・ハーン」の称号を賜った。また、ベンガル地方西部のバルダマーンジャーギールを与えられた。

一方、1594年にはムガル帝国の権臣ミールザー・ギヤース・ベグの娘ミフルンニサー・ハーヌム(のちのヌール・ジャハーン)とも結婚し、1605年には娘ラードリー・ベーグムが生まれた[2]

シェール・アフガーン・ハーンは任地ベンガルに滞在していたが、その振る舞いによって、ベンガル太守クトゥブッディーン・ハーン・コーカの不評を買い、彼らは仲が悪くなっていった[3]

1607年5月20日、クトゥブッディーン・ハーンがシェール・アフガーン・ハーンのもとに赴いていさめようとした際、両者は口論となって、シェール・アフガーン・ハーンは太守を殺害してしまった[3]。クトゥブッディーン・ハーンを殺した彼もまた、その場にいた衛兵に殺人者として処刑された[3]

その後、1611年に妻のミフルンニサー・ハーヌムは皇帝となっていたジャハーンギールの妃となり、ヌール・ジャハーンの称号を得た[3]

脚注[編集]

  1. ^ From the Memoirs of the Wázírs, Iqbalnama The History of India, Sir H. M. Elliot, London, 1867–1877, Volume 6, chpt. 148.
  2. ^ Nur Jahan Medieval India: From Sultanat to the Mughals Part – II, by Satish Chandra, 2000, Har Anand Publications. ISBN 81-241-1066-2. Page 237.
  3. ^ a b c d クロー『ムガル帝国の興亡』、p.165

参考文献[編集]

関連項目[編集]