コスィーンシキーの乱

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コスィーンシキーの乱
戦争コサックの反乱
年月日1591年 - 1593年
場所ウクライナ
結果:貴族軍の勝利、コサックの影響力の拡大
交戦勢力
ウクライナ・コサック
ポーランド・リトアニア共和国
指導者・指揮官
Alex K Kryshtof Kosynskyi.svg
K・コスィーンシキー
Alex K Ostorzhskyi.svg
J・オストロージシキー

コスィーンシキーの乱ウクライナ語Повстання Косинського)は、1591年ポーランド・リトアニア共和国の支配下に置かれたウクライナで起きたコサック反乱である。1593年貴族軍に鎮圧されたが、ウクライナにおけるコサックの影響力の拡大を齎した。記録上ではコサックによる最初の大騒乱である[1]

概要[編集]

反乱の主な原因は、ポーランド・リトアニア共和国貴族によるコサックの伝統的な自治制の抑圧と権利の侵害、ならびに大貴族によるドニプロ・ウクライナの領地化であった[1]。コサックの大敵は、キエフ県ヴォルィーニ県[要曖昧さ回避]知事の地位を持ち、膨大な荘園を有するルーシ系オストロージシキー公爵家であった[1]。反乱のきっかけは、1590年に従軍したコサックに対しポーランド・リトアニア共和国の政府による約束違反であった[1]。反乱の指導者になったのは、ヤーヌシュ・オストロージシキー公爵によって領地が奪われたクシシュトフ・コスィーンシキーであった[1]

1591年8月にコサック反乱軍はプィーキウ村(現:ウクライナヴィーンヌィツャ州)を占領し、同年末にかけてキエフ県の都市の過半数を陥落させた[1]。コサックは、貴族の荘園を襲い、を略奪し、財産武器を奪い取った。この騒動中に、オストロージシキーの領地が最大の被害を受けた。指導者コスィーンシキーは、コサック将軍と自称し、反乱軍が制圧した地域、とりわけビーラ・ツェールクヴァペレヤースラウボフスラーウコールスニチェルカースィカーニウなどの町人に忠節を制約させた[1]。法律上でこの行動が国王に対する反逆であったため、1592年3月に共和国の政府は国王の調査団を反乱軍のもとへ派遣した[1]。しかし、調査団による交渉は実らず、反乱は次第に拡大し、1592中にコサックはキエフ県とブラーツラウ県の全域を確保した[1]。コサックは、オストロージシキー家の本領であるヴォルィーニへも攻め入ったが、貴族軍の反撃に遭って撤退した[1]

オストロージシキー公爵は国王ジグムント3世に援軍を依頼し続けたが、国王は反乱をオストロージシキー対コスィーンシキーの個人戦と認識して干渉しなかった[1]。やがて、1593年頭にオストロージシキー公爵は、家臣から軍団を編成し、貴族の在郷軍も集め、コサックの地域へ攻め入った。1593年2月2日ピャートカ(現:ウクライナ、ジトーミル州)で決戦が行われ、オストロージシキー軍は反乱軍に勝利した[1]。降参したコサックは、オストロージシキー家に刃向かわないこと、およびコスィーンシキーを将軍の座から引き下げることを約束し、ザポロージャ地方へ退去した[1]。しかし、1593年5月に、コスィーンシキーがにはまってチェルカースィの代官オレクサーンドル・ヴィシュノヴェーツィキーによって殺害されると、コサックは再び蜂起を起こした[1]

同年8月に、ヴィシュノヴェーツィキーはコサックの力に屈し、ウクライナにおけるコサックの自治制と権利を認めた[1]。10月にコサックはキエフへ赴き、同じの条件をキエフの政府に承認させた[1]。これによってコサックは、ドニプロ・ウクライナにおける影響を回復させ、オスマン帝国クリミア・ハン国との戦いに戻った[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Леп’явко 2008:211-212.

参考文献[編集]

  • (ウクライナ語) Грушевський М. Історія України-Руси. — К., 1995. — т. 7.
  • (ウクライナ語) Леп’явко С. Козацькі війни кінця XVI ст. в Україні. — Чернігів, 1996.
  • (ウクライナ語) Леп’явко С. Косинського повстання // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2008. — Т. 5. — С. 211-212.

リンク[編集]