ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)
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ゲオルク2世 Georg II. | |
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ヘッセン=ダルムシュタット方伯 | |
在位 | 1626年7月27日 - 1661年6月11日 |
出生 |
1605年3月17日 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット |
死去 |
1661年6月11日(56歳没) 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット |
配偶者 | ゾフィー・エレオノーレ・フォン・ザクセン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヘッセン=ダルムシュタット家 |
父親 | ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世 |
母親 | マグダレーナ・フォン・ブランデンブルク |
ゲオルク2世(Georg II., 1605年3月17日 - 1661年6月11日)は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯(在位:1626年 - 1661年)。ルートヴィヒ5世(信義伯)とその妃であったブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘マグダレーナ(1582年 - 1616年)の息子。
生涯
[編集]1605年3月17日、ダルムシュタットで生まれ、1626年にルートヴィヒ5世の死去によって方伯位に即いた。1604年に断絶したヘッセン=マールブルク方伯領を巡るヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットの争いは1627年に一応の解決を見たが、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の母で摂政のアマーリエ・エリーザベト(1602年 - 1651年)はこれを不服として三十年戦争末期の1645年にヘッセン戦争を起こした。1648年まで続いたこの戦争により、ゲオルク2世は旧ヘッセン=マールブルク方伯領の北半分を奪われた。1661年6月11日にダルムシュタットで死去、長男のルートヴィヒ6世が後を嗣いだ。
子女
[編集]1627年にザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の公女ゾフィー・エレオノーレ(1609年 - 1671年)と結婚し、間に3男12女の計15人(うち娘1人は死産)の子女をもうけた。
- ルートヴィヒ6世(1630年 - 1678年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯
- マグダレーナ・ジビュラ(1631年 - 1651年)
- ゲオルク(1632年 - 1676年) - ヘッセン=イッター方伯
- ゾフィー・エレオノーレ(1634年 - 1663年) - 1650年、ヘッセン=ホンブルク方伯ヴィルヘルム・クリストフと結婚
- エリーザベト・アマーリア(1635年 - 1709年) - 1653年、プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムと結婚
- ルイーゼ・クリスティーネ(1636年 - 1697年) - 1665年、シュトルベルク伯クリストフ・ルートヴィヒ1世と結婚
- アンナ・マリア(1637年)
- アンナ・ゾフィア(1638年 - 1683年) - クヴェトリンブルク女子修道院長
- アマーリエ・ユリアーネ(1639年)
- ヘンリエッテ・ドロテア(1641年 - 1672年) - 1667年、ヴァルデック=ピルモント伯ヨハン2世と結婚
- ヨハン(1643年)
- アウグステ・フィリッピーネ(1643年 - 1672年)
- アグネス(1645年)
- マリー・ヘートヴィヒ(1647年 - 1680年) - 1671年、ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト1世と結婚
脚注
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