クンバー

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クンバー
Kumbha
メーワール王
Rana kumbha Birla mandir 6 dec 2009 (41).JPG
クンバー
在位 1433年 - 1468年
別号 マハーラーナー
出生 1427年
死去 1468年
子女 ウダイ・シング
ラーイ・マル
王朝 シソーディヤー朝
父親 モーカル
宗教 ヒンドゥー教
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クンバー(Kumbha, 1427年頃 - 1468年)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1433年 - 1468年)。クンバカルナ・シング(Kumbhakarna Singh)とも呼ばれる。

生涯[編集]

1427年頃、メーワール王国の君主モーカルの息子として誕生した[1][2]

1433年、父モーカルが暗殺されたことにより、クンバーが王位を継承した[3][4]。彼は内部の敵を倒して自身の地位を固めたが[5]、このときマールワール王国の君主ラン・マルの助力を得た。

その後、クンバーはブーンディー王国コーター王国ドゥーンガルプル王国の征服をはじめた。コーターはマールワー・スルターン朝、ドゥーンガルプルはグジャラート・スルターン朝にそれぞれ忠誠を払っていたため、メーワール王国はマールワー・スルターン朝とグジャラート・スルターン朝と対立することとなった[6]

1440年、クンバーはマールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝の連合軍に対して、十万の歩兵・騎兵、1400の象軍で相手した[7]。そして、連合軍に壊滅的な打撃を与え、首都チットールガルには記念搭たるヴィジャイ・スタンバーが建てられた[8]。全長37メートル、9階建てのこの塔は1448年に完成した。

1442年11月、マールワー・スルターン朝の君主マフムード・シャーはメーワール王国に遠征を行った。いくつかの都市を占領したのち、雨期に入ったので王国内にとどまった。

1443年4月、クンバーはマフムード・シャーの陣営に攻撃をかけた。この攻撃により打撃を受けたマフムード・シャーはマールワーの首都マーンドゥーに帰還した。

同年11月、マフムード・シャーはメーワール王国に再び侵攻し、いくつかの都市を占領した。だが、彼はチットールガルは占拠しなかった。

1446年10月、マフムード・シャーはマーンダルガルを攻撃したが、反撃にあってこれは成功しなかった。その後、マールワーはメーワールを10年間攻撃することはなかった。

また、クンバーはのち、マールワー・スルターン朝と敵対するグジャラート・スルターン朝、デリー・スルターン朝と同盟を結んだ。クンバーはグジャラート・スルターン朝、デリー・スルターン朝から「ヒンドゥー・スラトラーナー」(ヒンドゥーのスルターン)の称号を与えられた。

1453年あるいは1454年ナーガウルの支配者フィールーズ・ハーンが死亡した。その息子であるシャムス・ハーンは叔父ムジャーヒド・ハーンから支配者の地位を奪うため、クンバーに援助を求めた。クンバーはシャムス・ハーンを援助し支配者の地位に昇らせたが、のちにグジャラート・スルターン朝と結ぼうとしたことに腹をたて、1456年にナーガウルとその周辺都市を占拠した。

同年、グジャラート・スルターン朝はこれに対しメーワール王国へ進軍、シローヒーを占領、クンバルメールを攻撃した。その際、グジャラート・スルターン朝はメーワール王国を攻撃するため、マールワー・スルターン朝と戦利品を分割する条約をチャーンパーネールで締結していた。だが、クンバルメールを占拠できず、メーワール王国の首都チットールガルへの進軍ははばまれた。

1456年、マールワー・スルターン朝のマフムード・シャーはアジュメールを占領、12月にはマーンダルガルを占拠した。アジュメールには地方長官が置かれ、その間にはグジャラート・スルターン朝が二度クンバルガルを包囲した[9]。だが、ここでマールワール王国の君主ジョーダーマンドールを確保した。これにより、クンバーは多方向からの攻撃に耐えることができ、これらを撃退した。

1458年、グジャラート・スルターン朝の君主アフマド・シャー2世が死亡し、グジャラートの軍勢は引き上げた。マフムード・シャーもまたこれを機に撤退し、戦闘は終結した。

クンバーはこのようにマールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝の軍勢をたびたび打ち破った。彼はマールワーとグジャラートの二強国との戦いで不利な状況に置かれても、それをものともせず、ランタンボールなどの外縁地域を除いてはその征服地を多く維持できた[10]。また、クンバーはメーワール王国内に32の城塞を建築したが、その中でもクンバルガルが今が一番立派であった[11]

また、クンバーは王国では学者を保護し、彼自身も学者であって、いくつも本を書いた[12]。彼は灌漑のために人造湖や貯水池を掘らせたり、また彼の時代にはいくつか寺院が建設されたが、その石切りや彫刻の技術が最高度の段階にあった[13]

1468年、クンバーは自分の息子ウダイ・シングによって暗殺された[14][15][16][17]

脚注[編集]

  1. ^ Udaipur (Princely State)
  2. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  3. ^ Udaipur (Princely State)
  4. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  5. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.176
  6. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.176
  7. ^ チョプラ『インド史』、p.108
  8. ^ チョプラ『インド史』、p.108
  9. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.177
  10. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.177
  11. ^ チョプラ『インド史』、p.108
  12. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、pp.177-178
  13. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.177
  14. ^ Udaipur (Princely State)
  15. ^ UDAIPUR (Mewar) (Princely State)
  16. ^ チョプラ『インド史』、p.108
  17. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.178

参考文献[編集]

  • サティーシュ・チャンドラ; 小名康之、長島弘訳 『中世インドの歴史』 山川出版社、2001年 
  • P・N・チョプラ; 三浦愛明訳 『インド史』 法蔵館、1994年 

関連項目[編集]