クルト・フォン・ゴットベルク

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1943年ミンスクにて、ゴットベルク(左の杖をついている人物)、「中央ロシア」親衛隊及び警察高級指導者エーリヒ・フォン・デム・バッハ(右)

クルト・グスタフ・フリードリヒ・ヴァルター・フォン・ゴットベルクCurt Gustav Friedrich Walther von Gottberg1896年2月11日- 1945年5月31日) は、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将、警察大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS und Polizei)。

経歴[編集]

初期の人生[編集]

東プロイセンプロイッシュ・ヴィルテン(de:Preußisch Wilten)で荘園主の息子として生まれる。ギムナジウムで大学入学資格を取得する。 第一次世界大戦が勃発すると、1914年8月に志願兵として胸甲騎兵連隊「グラーフ・ヴランゲル」に入隊。1915年に近衛第1歩兵連隊に移って西部戦線で戦い、1917年に重傷を負う[1]。大戦中に一級鉄十字章および二級鉄十字章戦傷章黒章を受章した。 ドイツ敗戦後、1919年4月にエアハルト旅団に参加した。1923年11月9日のミュンヘン一揆にも参加している。1924年からは、スウェーデンイタリアで農作業と農地管理に従事した。

親衛隊入隊後[編集]

1931年11月15日に突撃隊に入隊。1932年2月1日に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号948,753)。7月20日には突撃隊を去って、親衛隊に入隊する(隊員番号45,923)。

1934年3月25日には親衛隊特務部隊の大隊長となる。1935年6月1日からブラウンシュヴァイクの親衛隊第49連隊の指揮官となるが、1936年1月5日に自動車事故のため左足下腿部を切断している[1]。1937年7月1日から親衛隊人種及び移住本部の入植部門の局長となる。1939年4月18日からベーメン=メーレン保護領に派遣され、プラハに国土事務局を設置した。だが金融的失政によって11月7日に解任され、一時期職務から離れた[2]

1940年10月1日から親衛隊本部の補充部門の局長、1941年1月10日に訓練部門の局長となる[3]

1942年7月21日に「東国及び北ロシア」親衛隊及び警察高級指導者(Höhere SS- und Polizeiführer „Ostland und Rußland-Nord“)指揮下の「白ロシア親衛隊及び警察指導者(SS- und Polizeiführer „Weißruthenien“)に任命される。 11月16日から戦闘団「フォン・ゴットベルク」司令官となり、対パルチザン作戦に身を投じた。 1943年7月5日には「中央ロシア及び白ロシア」親衛隊及び警察高級指導者(Höhere SS- und Polizeiführer „Rußland-Mitte und Weißruthenien“)代理となる。9月22日に白ロシア行政委員であるヴィルヘルム・クーベが暗殺されると後任に任じられた。ゴットベルクのもとで白ロシアにおける独立政府樹立とベラルーシ国民軍の創立の方向性について承認がなされた[1]

1944年8月7日に第12SS軍団長に就任し東部戦線の第3戦車軍の下で、さらに1944年9月末から西部戦線の第1降下猟兵軍指揮のもとで野戦部隊の指揮を執ったが、重病となり入院した。終戦時はオランダの北西軍集団付となる[1]

最期[編集]

イギリス軍の捕虜となったゴットベルクは1945年5月31にフレンスブルク収容所で自殺した[1]

キャリア[編集]

階級[4][編集]

受章歴[5][編集]

参考文献[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 高橋,p.232
  2. ^ Miller,p.454
  3. ^ Miller,p.455
  4. ^ Miller,p.452
  5. ^ Miller,p.457