クリスティーヌ・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
クリスティーヌ・ド・フランス
Christine Marie de France
Portrait of Christine of France, Duchess of Savoy in 1633 by an anonymous artist.jpg
出生 (1606-02-10) 1606年2月10日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国 パリ
死去 (1663-12-27) 1663年12月27日(57歳没)
トリノ
配偶者 サヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ1世
子女 一覧参照
父親 フランスアンリ4世
母親 マリー・ド・メディシス
テンプレートを表示

クリスティーヌ・マリー・ド・フランス(Christine Marie de France, 1606年2月10日 - 1663年12月27日)は、サヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ1世の公妃。イタリア語名ではマリーア・クリスティーナ・ディ・フランチア(Maria Cristina di Francia)。未婚時代にマダム・ロワイヤルの称号を授けられていたことから、「マダム・レアル」(Madame Reale)とも呼ばれた。

生涯[編集]

フランスアンリ4世と2度目の王妃マリー・ド・メディシスの次女としてパリで生まれた。姉エリザベート(スペイン王フェリペ4世妃)の結婚後、自身が結婚するまでマダム・ロワイヤルの称号を有した。

1619年にヴィットーリオ・アメデーオと結婚した。1630年に夫はサヴォイア公となるが、7年後に急死した。クリスティーヌは2人の息子フランチェスコ・ジャチントカルロ・エマヌエーレ2世がまだ年少だったため、摂政となった。

亡夫の弟たち、マウリツィオ枢機卿トンマーゾが、義姉とフランス勢力の介入に異を唱えた。クリスティーヌの長男フランチェスコ・ジャチントが夭逝すると、1638年、彼らはスペインの力を借りて「ピエモンテ戦争」を引き起こした。2つの勢力はプリンチピスティ(公子派)、マダミスティ(マダム・レアル派)と呼ばれた。

4年に及ぶ戦争の後、クリスティーヌ側が勝利した。彼女は息子の公位を守っただけでなく、フランス側がそれ以上公国に介入するのを遮断した。1642年に和議が成立し、マウリツィオはローマ教皇パウルス5世の許しを得て還俗し、14歳の姪ルイーザ・クリスティーナと結婚してニース知事となった。クリスティーヌは、カルロ・エマヌエーレが成長するまで摂政を務めた。

クリスティーヌは、1663年にトリノで死去した。

子女[編集]

関連項目[編集]