ギオチャンガ
| 出身氏族 | |
|---|---|
| アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏) | |
| 名字称諡 | |
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明代 | |
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清代 | |
| 出生死歿 | |
| 出生 | 不詳 |
| 死歿 | 明万暦11年(1583)2月 |
| 親族姻戚 | |
| 父 | フマン(福満) |
| 母 | 直皇后 |
| 妻 | 翼皇后 |
| 子 | タクシ(塔克世) |
| 孫 | ヌルハチ |
ギオチャンガ(満洲語:ᡤᡳᠣᠴᠠᠩᡤᠠ 転写:giocangga、覚昌安)は、明後期頃の建州女直。アイシン・ギョロ氏。ヌルハチ (清太祖) 祖父。
略歴
[編集]都督フマン(福満)の第四子として生まれた。フマンの六子 (六祖) はそれぞれに城を築いて分住し、ギオチャンガは他の五城から「近きは五里、遠きは二十里」の距離に位置するヘトゥアラ地方を拠点とした。[3]
六祖がそれぞれに拠点を構え始めた頃、近辺部落に有力な二つの氏族がいた。ショセナ(碩色納)の9人の子はみな強悍であった。ギャフ(加虎)の7人の子はみな軽捷かつ剛力であった。二者とも武力を恃んで各地を侵犯掠奪していたが、才智に富むギオチャンガと英勇を誇る子リドゥンは、ニングタ・ベイレ(|寧古塔貝勒、(ギオチャンガの兄弟) を率いて出兵し、ショセナの九子とギャフの七子を討滅した。五嶺から東とスクスフ河から西の200里の諸部族が服従したことで、六祖の勢力は伸長した。[3]
一方、遼東巡撫の侯汝諒の奏文には「賊首」として名前が挙がっていることから、ギオチャンガは建州右衞都指揮使・王杲の明辺塞への入寇に関与していたとされ、その後改悛し入貢するようになったという。[7]
横死
[編集]明万暦11年(1583)2月、明朝は、辺境を度々侵犯し治安秩序を混乱させているとして、スクスフ・ビラ部グレ城主アタイの征討を決め、将軍に李成梁、先導にギオチャンガと子タクシ (ヌルハチ父) を任命した。ギオチャンガは明の官軍とともにグレ城に向かったが、アタイに嫁いだ孫娘の救出とアタイ招降のためにグレ城内へ入ったところを、同じくスクスフ・ビラ部に属するトゥルン城の城主ニカン・ワイランに煽動された明軍により、タクシともども「誤殺」された。
この事件は後に七大恨の第一条 (恨一) として、ヌルハチに明征討を決意させた。
一族姻戚
[編集]*満文表記 (転写) および仮名表記は『滿洲實錄』(満) に準拠した。丸括弧内の漢字表記は『太祖高皇帝實錄』[3]/『滿洲實錄』[8]の順で記し、両者の表記が同一である場合は統合した。また、その外の文献を典拠とする場合のみ脚註を附した。
脚註
[編集]典拠
[編集]- ↑ “萬曆47年(1619)月16日段72053”. 神宗顯皇帝實錄. 582. "奴之祖父教塲タクシ(他失)、昔李成梁用爲鄉導併掩殺于阿台城……"
- ↑ “(愛新覺羅)覺昌安”. 人名權威. 2024年7月6日閲覧。 “叫塲 別稱 明經世文編, 影印明經世文編序, 頁1”
- 1 2 3 4 5 6 “癸未歲至甲申歲萬曆11年(1583)至12年(1584)段263-266”. 太祖高皇帝實錄. 1
- ↑ “(愛新覺羅)覺昌安”. 人名權威. 2024年7月6日閲覧。 “覺常剛 別稱 國立故宮博物院大清太祖武皇帝實錄(小紅綾本初纂本), 103000015號”
- 1 2 安, 双成, ed (1993). “ᠮᡠᡴᡩᡝᠮᠪᡠᡥᡝ ᠮᠠᡶᠠ ᡤᠣᠰᡳᠩᡤᠠ ᡥᡡᠸᠠᠩᡩᡳ”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 774. "景祖翼皇帝,名觉昌安,福满第四子,明人称之为叫场,清人尊称为景祖翼皇帝。"
- ↑ “天聰10年(1636)4月12日段1933”. 太宗文皇帝實錄. 28
- ↑ “第七節 - 丁. (建州の賊首)”. 清朝全史. 上. pp. 116-119
- ↑ “滿洲源流/癸未歲至甲申歲萬曆11年1583至12年1584段13”. 滿洲實錄. 1
文献
[編集]實錄
[編集]*中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)
- 顧秉謙, 他『神宗顯皇帝實錄』崇禎3年1630 (漢)
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版