カトリーヌ・ド・クルトネー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カトリーヌ・ド・クルトネー
Catherine de Courtenay
名目上のラテン女帝
カトリーヌの墓像
在位 1283年12月15日 - 1307年10月11日

称号 ナミュール女侯
ヴァロワ伯妃
出生 (1274-11-25) 1274年11月25日
死去 (1307-10-11) 1307年10月11日(32歳没)
フランス王国パリ
埋葬 1307年10月12日
フランス王国サン=トゥアン=ロモヌ、モビュイソン女子修道院
配偶者 ヴァロワ伯シャルル
子女 ジャン
カトリーヌ
ジャンヌ
イザベル
家名 クルトネー家
父親 フィリップ1世・ド・クルトネー
母親 ベアトリス・ダンジュー
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示

カトリーヌ・ド・クルトネー(フランス語:Catherine de Courtenay, 1274年11月25日 - 1307年10月11日)は、名目上のラテン帝国女帝(1283年 - 1307年)。ヴァロワ伯シャルルの2番目の妃となって1男3女を産み、そのうちの長女カトリーヌは名目上の女帝位を継承した。

生涯[編集]

カトリーヌは名目上のラテン帝国皇帝フィリップ1世・ド・クルトネーベアトリス・ダンジューの間の唯一の子として1274年11月25日に生まれた[1]

1283年12月15日に父が死去し、カトリーヌは名目上のラテン帝国皇帝位を継承し、ギリシャのラテン諸邦において女帝として認められた。しかし、すでに1261年にそれらの都市はニカエア帝国に奪還されていた。

カトリーヌは結婚前に3回婚約している。1288年、最初に東ローマ帝国共治帝ミカエル9世パレオロゴスと婚約した。この婚約は東ローマ帝国においてラテン勢力が回復する脅威を減らし、ローマ教皇およびヨーロッパ君主との和解を期待し、ミカエル9世の父アンドロニコス2世パレオロゴスが提案したものであった。しかし、数年の成果のない交渉とフランス王の断固とした反対の後、1295年にこの婚約は破棄され、ミカエル9世はこの時にはすでにキリキア・アルメニア王女マリアと結婚していた。

1295年6月、2度目にアラゴン王ペドロ3世の息子フェデリーコと婚約した。この婚約にあたり、フェデリーコはシチリア王国に対する権利を放棄し、ラテン帝国の再征服に支援することを約束した。しかし、この婚約もフランス王が反対し、破棄された。

1299年1月24日、3度目にマヨルカジャウメ2世の息子ジャウメと婚約した。カトリーヌとジャウメは近い血縁関係にあり、教皇ボニファティウス8世の特免状を必要としたが、教皇はそれを発行しなかった。ジャウメは、マヨルカの王位継承を辞退し、修道士になった。

最終的に、1301年2月28日にパリ近郊のサン・クルー修道院において、カトリーヌはフランス王フィリップ3世の息子ヴァロワ伯シャルルと結婚した[1]1301年4月23日、シャルルは名目上のラテン皇帝となった。カトリーヌは1307年10月11日に32歳でパリにおいて死去し、翌12日にモビュイソン女子修道院に埋葬された[2]。最後のテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーは、カトリーヌの棺を担いだメンバーの一人であった。

子女[編集]

ヴァロワ伯シャルルとの間に4子をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Peter Lock, The Franks in the Aegean: 1204-1500, (Routledge, 2013), p. 66.
  2. ^ (フランス語)Revue archéologique Juillet-Decembre 1907, Volume 4; Volume 9, ed. G. Perrot and S. Reinach, (Ernest Leroux, 1907), pp. 448–449.