オーストラリア (重巡洋艦)
艦歴 | |
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発注 | ジョン・ブラウン社クライドバンク造船所 |
起工 | 1925年8月26日 |
進水 | 1927年3月17日 |
就役 | 1928年4月24日 |
退役 | 1954年8月31日 |
その後 | 1955年3月26日に売却 |
除籍 | 1954年8月31日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:9,850トン、 満載:13,450トン |
全長 | 192.02m 179.8m(水線長) |
全幅 | 20.8m |
吃水 | 4.9m |
機関 | アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基+ パーソンズ式ギヤードタービン4基4軸推進 |
最大出力 | 80,000hp |
最大速力 | 31,5ノット |
航続距離 | 12ノット/13,300海里 31.5ノット/3,150海里 |
燃料 | 重油:3,400トン |
乗員 | 679~700名 |
兵装 | 竣工時: アームストロング Mark VIII 20.3cm(50口径)連装砲4基 アームストロング Mark V 10.2cm(45口径)単装高角砲4基 オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲2基 ヴィッカーズ 4cm(39口径)単装ポンポン砲4基 53.3cm水上魚雷発射管四連装2基 1939年: アームストロング Mark VIII 20.3cm(50口径)連装砲4基(1945年:3基) アームストロング Mark V 10.2cm(45口径)単装高角砲4基&連装高角砲2基 ヴィッカーズ 4cm(39口径)八連装ポンポン砲2基 ボフォース 4cm(56口径)機関砲12基 エリコンFF 2cm(76口径)機関砲14丁 53.3cm水上魚雷発射管四連装2基) |
装甲 | 舷側:25mm(1939年:140mm)(水線面主装甲)、63.5mm(機関区隔壁) 甲板:35mm(水平面) 主砲塔:51mm(前盾)、38mm(後盾) 主砲バーベット部:25mm 主砲弾薬庫:25~110mm(壁面) |
航空兵装 | 水上機1~2機 |
モットー | Endeavour |
オーストラリア(HMAS Australia, D84)は、オーストラリア海軍が保有した重巡洋艦。第二次世界大戦前にイギリス海軍1924年度海軍整備計画の一環としてケント級のうち2隻が発注された内の1隻である。
概要
本艦を含むケント級は艦体戦闘よりも個艦での遺外任務を主念頭に置いて設計されたために、条約に定められた排水量内で必要最小限の武装と低い防御能力と引き換えにして高い凌波性・航続距離・居住性を実現していた。
艦形
限度枠いっぱいの基準排水量9,700トン台の船体は乾舷の高い平甲板型船体とし、艦首側面形状は凌波性能を高めるために2段の強いフレア(反り返り)が付けられていた。艦首甲板上には20.3cm砲を連装砲塔に収めて背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から上部構造物は始まり、その上に箱を積み重ねたような形状の操舵艦橋の背後には後方に傾斜した単脚式の前部マストが立つ。船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立つが、2番煙突のみ太かった。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、舷側に設けられた2本1組のボート・ダビッドが片舷に3組ずつ計6組で運用された。3番煙突の後方に露天の後部見張所と単脚式の後部マストが立ち、3番主砲塔の基部で上部構造物は終了し、甲板一段分下がって後部甲板上に4番主砲塔が配置された。船体舷側部には復元性と水雷防御として広範囲にバルジが装着されていた。
艦歴
オーストラリアは1925年8月26日にスコットランド、グラスゴーのジョン・ブラウン社で起工された。1927年3月17日進水。1928年4月24日に就役した。1938年~1939年にかけて近代化改装を実施され、対空火器と防御力の強化が行われた。
オーストラリアは第二次世界大戦に参加した。1940年9月、ダカール攻撃に参加してフランスのル・ファンタクス級駆逐艦「ローダシュー」を撃破したが、オーストラリアも沿岸砲台からの砲撃で中破した。修理後、1941年の間は船団護衛や大西洋、インド洋の哨戒をおこなっていた。
日本軍によるポートモレスビー侵攻が迫るとアメリカ軍は珊瑚海に空母ヨークタウンを中心とする第17任務部隊(フレッチャー少将)や空母レキシントン(フィッチ少将)を中心とする第11任務部隊を派遣し、第44任務部隊(クレース少将)のオーストラリアと軽巡洋艦ホバートも5月1日にシドニーから出撃した[1]。5月5日、オーストラリアとホバートはヨークタウンやレキシントンと合流[2]。これらの部隊は5月6日には第17任務部隊に統合された[2]。5月7日、第17任務部隊と日本軍との間で珊瑚海海戦が始まった。午前6時25分(現地時間)、フレッチャー少将はオーストラリアと重巡洋艦シカゴ、軽巡洋艦ホバートと駆逐艦パーキンス、ウォーケ、ファラガット(第17.3任務群[3]、クレース少将)を分離し、ジョマード水道へと向かわせた[4]。これは空母部隊が敗れた場合でもこの部隊が日本軍のポートモレスビー攻略部隊を阻止すること期待してのものであった[5]。この日ラバウルから日本軍第四航空隊の一式陸上攻撃機12機(雷装)と元山航空隊の九六式陸上攻撃機20機(爆装、1機は途中で引き返す)が発進しており[6]、第17.3任務群はそれらによる攻撃を受けた。だが、この攻撃による大きな損害は無かった[7]。次いで第17.3任務群はオーストラリアから発進したアメリカのB-17爆撃機による爆撃を受けた[8]。5月8日にホバートとウォーケをブリスベンへ向かわせた後も、しばらくクレース少将は日本軍を迎撃できる場所にとどまっていたが、5月11日にウイットサンデー島Cid Harbourに帰投した[9]。
1942年8月から1944年の中頃までオーストラリアはガダルカナル島やニューギニア島、ニューブリテン島上陸作戦を支援した。
1944年10月21日、フィリピン近海で日本軍機の体当たりにより損傷した。艦長のエミール・デシェヌーを含む30人が戦死した。10月25日にも再び体当たりを受けてオーストラリアは修理のためニューヘブリディーズ諸島へ後退した。1945年1月に復帰し戦争終結までに6度体当たりを受けて86名の戦死者を出した。
第二次世界戦後は練習艦となり1954年8月31日に除籍、1955年3月26日に売却されて解体処分された。
関連項目
脚注
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.41
- ^ a b Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.45
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.47
- ^ 暁の珊瑚海、107-108ページ
- ^ 暁の珊瑚海、107ページ
- ^ 暁の珊瑚海、190、193ページ
- ^ 暁の珊瑚海、203ページ
- ^ 暁の珊瑚海、219-220ページ
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.52-53
参考文献
- Gill, George Hermon, Royal Australian Navy, 1942–1945. Australia in the War of 1939–1945, Series 2, Volume II, Australian War Memorial, 1968
- 森史郎、『暁の珊瑚海』、光人社、2005年、ISBN 4-7698-1228-0
参考図書
- 「世界の艦船2010年1月増刊 近代巡洋艦史」(海人社)
- 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
外部リンク
- HMAS Australia history and images, U. S. Naval Historical Center