オークラロータリーレーシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
母体となったオークラオートサービス
レース車両に使用された20Bペリポートエンジン。エンジン後部にはシーケンシャルミッションが装着されている
ローターハウジングは、マツダスピードのスポーツキットを使用していた

オークラロータリーレーシング(OKURA Rotary Racing)とは、かつて岡山県に存在したレーシングチーム。

概要[編集]

岡山県高梁市の「オークラオートサービス」が母体[1]マツダ・RX-7(FD3S)で1998年-2000年まで全日本GT選手権に参戦した[2]。当時、GT選手権300クラスでは、中四国唯一の有力企業などをバックに持たないプライベートチームの参戦として話題となった[2]

レース車両[編集]

RX-7(FD3S)に、自然吸気の3ローターエンジンを搭載した。ハウジングはマツダスピードのスポーツキットを使用し、ドライサンプ仕様であった(RE雨宮はノーマルFD3Sを加工したハウジングを使用し、当時はまだウエットサンプであった[3])。当時のレギュレーションによって、リストリクターの装着が義務付けられていた[3]。ゼッケンは72番を使用し、紺色のカラーリングを使用した。

戦歴[編集]

1998年[編集]

ドライバーはマーク・ポーター(Mark Porter)[4]片山義美を起用。後に片山の代わりに平野功が参加した。緒戦は頻発するエンジンブローでリタイヤが続いた。多発するエンジンブローのために、GT選手権の開催中にピットでエンジンのオーバーホールと組み立てを行い、殆ど慣らしのせずに実戦投入することなども強いられた。後ほど原因はマツダスピードによるオイル配管の設計ミス(油圧のリリーフ弁からの配管がエンジンに接続されていた)と判明した。5戦に出場したが完走は1回のみ(9月12日 もてぎGTチャンピオンレース)でクラス15位に終わった[5]。レースクイーンとして名波はるかが在籍した。

1999年[編集]

ドライバーは石川朗と平野功を起用し7戦に出場した。マツダスピードのGT-Cエアロパーツが装着され空力特性が向上した[6]。一時クラス3位を走行することもあったが[7]、マシンの熟成が遅れ[8]マイナートラブルによるリタイヤが多く、完走は2回のみあった[5]。7月10日のCP MINE GT RACEでのクラス10位が最高で1ポイントを獲得するに留まった[8][5]。このMINEサーキット戦の直前にマツダスピードが解散することが発表された[9]。マツダスピードからサスペンションアームなどを購入していたチームオーナーは不安を訴えた[10]。また3ローターエンジンのエキセントリックシャフトが入手できず、海外を含めた中古パーツ市場でも滅多に手に入らなくなっている状況が報告された[10]。マツダスピードサービス部杉野芳彦課長は、社長がマツダ本社と交渉しているが7月末で会社自体が消滅するのでGT選手権に参戦している2チーム(オークラとRE雨宮)のサポートは今後困難になる可能性があることを示唆した[10]。ファン投票の結果、GT300クラスで4位となり1999GTオールスター出場権を獲得し[5]、1999NICOS CUP GT ALLSTARに出走した(1999年11月27日-28日)。同年の第28回「インターナショナル ポッカ1000km」(鈴鹿1000kmレース)にはエントリーしたものの、資金難で出走できなかった。

2000年[編集]

ドライバーは沢圭太と石川朗を起用[7]。1999年までのマシンのボディーが疲弊していたために2000年はボディーから新調して参戦した。マシンは東京オートサロン2000に展示され[1][11]、マツモトキヨシ雨宮RX-7号と人気を2分するギャラリーを集めた[8]。ニューシャシーはマツダスピードの消滅を機に退社した杉野芳彦[12]が製作した。同シャシーは計3台作成され、オークラロータリーレーシング、RE雨宮、レボリューション[13]に配布された。ニューマシンの製作が遅れ、TIサーキット英田(現在の岡山国際サーキット)で開催される第5戦(9月9日-10日)から参戦した[7]。3週間前に完成したばかりのニューマシンは[7]予選前日の練習走行で20台中5位のタイムを記録し昨年以上の仕上がりとされたが、午後の走行で沢選手が運転中に他車と接触してマシンが大破し、予選と決勝には出場できなかった[5][14]。マシンの修復に時間がかかり残り2戦には参戦できず、2000年はそのままシーズンを終えた[5]

2001年[編集]

第2戦(富士スピードウェイ)から参加を予定していた[2]。ドライバーは桧井保孝[2]を予定していたが、資金難より2001年のエントリーは取りやめた。

その後[編集]

2001年以降、チームはレース活動を停止して解散した。またレース車両は海外に売却された。

スポンサー[編集]

オークラオートサービスについて[編集]

岡山県高梁市落合町の自動車修理工場。マツダOBでロータリーエンジンを草創期から見つめてきた[15]大倉従道(つぐみち;1939年3月19日[16]-)が1989年1月に開設した[16]

脚注[編集]

  1. ^ a b 「来期GT選手権出場スーパーエアロが初見参だ」 ハイパーレブ RX-7マガジン No,0005 p43 『株式会社ニューズ出版』 2000年3月17日発刊 ISBN4-89107-007-2
  2. ^ a b c d 走れRX7 高梁のチームが「全日本GT選手権シリーズ」に来月参戦 元マツダ社員「広島の誇り」『中国新聞』 2001.04.15 中国朝刊 二社 写有 (全650字)
  3. ^ a b 週間オートスポーツ NO.1293 2011年3月31日号
  4. ^ ニュージーランド人。2006年V8マシンのレースで死去している。
  5. ^ a b c d e f JAF 国内競技結果検索サービス
  6. ^ 「GT300には2枚」 ハイパーレブ RX-7マガジン No,0003 p109 『株式会社ニューズ出版』 1999年9月3日発刊 ISBN4-938495-15-5
  7. ^ a b c d 中国トピックス 地元GTの意地見せるぞ 高梁の「オークラロータリーレーシング」 あすから英田 「表彰台を狙いたい」『中国新聞』2000.09.08 中国夕刊 夕二 写有 (全426字)
  8. ^ a b c 「FD3Sサーキットを駆け抜ける」 ハイパーレブ RX-7マガジン No,0005 p112 『株式会社ニューズ出版』 2000年3月17日発刊 ISBN4-89107-007-2
  9. ^ 日刊自動車新聞 1999年6月28日
  10. ^ a b c 古屋 知幸 GTインサイドレポート Round 4 MINE GT RACE その2 『GTアソシエイション事務局』 1999年7月11日
  11. ^ オークラRX-7 2000モデル / オークラロータリーレーシング
  12. ^ 4輪エンジニア、元マツダスピード・シャシ担当チーフ
  13. ^ 埼玉県のチューニングショップ。同シャシーをベースにGT選手権300クラスに参戦予定だったが最終的に参戦を見送り、シャシーは同社のデモカーに使用された。
  14. ^ 「全日本GT選手権シリーズ第5戦」出場を断念 オークラロータリー(岡山県)『中国新聞』2000.09.10 中国朝刊 井笠 (全124字)
  15. ^ (響紀行)ロータリーエンジン 拍動せよ、孤高の心臓 【大阪】『朝日新聞』2011.06.25 大阪夕刊 1頁 1総合 写図有 (全2,425字)
  16. ^ a b 東京商工リサーチ 人物情報

関連項目[編集]