オルデリーコ・マンフレーディ2世

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オルデリーコ・マンフレーディ2世(Olderico Manfredi II, 975/92年 - 1041年)は、11世紀前半のトリノ辺境伯およびスーザ伯。アルドゥイーノ家(Arduinici)の最後の男系子孫であり、娘アデライデが領地の大部分を継承した。また、アデライデの夫であるサヴォイア伯オッドーネがトリノ辺境伯となった。二人の子孫のサヴォイア家は、後にサルデーニャおよびイタリアの王となる。

生涯[編集]

オルデリーコ・マンフレーディ2世は、オルデリーコ・マンフレーディ1世とプランガルダ(カノッサ伯アダルベルト・アットーの娘)との間の子として、トリノで生まれた。1000年に、祖父アルドゥイーノ (Arduin Glaberが築いた広大なトリノ辺境伯領を相続した。1001年7月31日の皇帝の特許状において、オルデリーコ・マンフレーディの忠勤に対し、皇帝オットー3世が領地の追認と特権の付与を行っている[1]

オルデリーコは、相続後すぐに、イヴレーア辺境伯アルドゥイーノおよびハインリヒ2世と対峙し、権力の拡大をはかった。イタリア王国を巡っての争いでは、イヴレーア辺境伯領の代償に、広大な領地を手に入れた[2]

オルデリーコの領地は、トリノ、イヴレーア、アルベンガヴェンティミーリアアウリアーテ英語版トルトーナおよびヴェルチェッリにまで及んでいたが、オルデリーコおよび妻のベルタによって出された2つの特許状(1021年のアダルギスの息子シジフレド神父への売却、および、1031年のトリノのサン・ソルトーレ修道院への寄付)からは、オルデリーコが領地をよく治めていたことが窺える[3]。アルドゥイーノとハインリヒ2世の間の争いでは、オルデリーコは慎重に双方との対立を避け、軍を率いて次第に領土を拡げ(1016年にはトスカーナ辺境伯ボニファーチョ4世と争っていた)、領内において権力を確立させていった。1024年、ハインリヒ2世が死去し、オルデリーコはコンラート2世がローマ王に選出されたのに対抗して、アキテーヌ公ギヨーム5世をイタリア王位に就けようとしたが、失敗に終わった[4]

オルデリーコはトリノに居城を持っていたが、中世の他の領主と同様にそこにとどまることはなく、広大な領土を支配するために各地の城を転々とした。オルデリーコの娘アデライデはトリノを首都とするのをやめ、スーザを本拠地としたとも言われるが、それは誤りであり、アデライデは他よりも頻繁にトリノに滞在している[5]

1028年頃、オルデリーコ・マンフレーディは弟アスティ司教アルリーコ(Alrico)、ミラノ大司教アリベルト(Ariberto da Intimiano)およびトリノ司教ランドルフォ(Landolfo)とともに、モンフォルテで起こった異端の動きを鎮圧した[6]

オルデリーコはスーザのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂やノヴァレーザ修道院 (Novalesa Abbeyを再建した。1028年5月、オルデリーコは妻ベルタとともに、カラマーニャにサンタ・マリア女子修道院を創建した。翌1029年7月には、ノヴァレーザの聖ジュスト (it:Giusto di Novalesa聖遺物を納めるため、妻ベルタおよび弟アスティ司教アルリーコとともに、スーザにベネディクト会のサン・ジュスト修道院を創建した。サン・ジュスト修道院の教会は現在はスーザ大聖堂 (Susa Cathedralとなっている。

また、オルデリーコは、エジッレスおよびバルドネッキアを要塞化した。

オルデリーコはトリノ大聖堂に葬られた[7]

子女[編集]

1014年以前にオルデリーコはベルタと結婚し[8]、3人の娘をもうけた[9]

脚注[編集]

  1. ^ Urkunden Otto des III, no. 408, p. 842. この特許状において、オルデリーコはOdelrico marchioni qui Mainfredus nominaturと言及されている。
  2. ^ Previté-Orton, Early History, p. 165
  3. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 173f.
  4. ^ Trillmich, Kaiser Konrad, p 348.
  5. ^ Sergi, 'I poli del potere'.
  6. ^ Fichtenau, Heretics and Scholars, pp. 41ff.
  7. ^ Previté-Orton, Early History, p. 187
  8. ^ 1014年にフルットゥアリア修道院への夫妻からの寄付を皇帝ハインリヒが追認している。Sergi, ‘Una grande circoscrizione,’ p. 661; Previté-Orton, Early History, p. 166
  9. ^ Bresslau, Jahrbücher, I, p. 378

参考文献[編集]

  • Die Urkunden Otto des III. (Ottonis III. Diplomata), MGH Diplomata II (Hannover, 1893) Monumenta Germaniae Historia
  • W. Trillmich, Kaiser Konrad II und seine Zeit (1991)
  • H. Bresslau, Jahrbücher des Deutschen Reichs unter Konrad II., 2 vols. (1884) archive.org
  • C.W. Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy (1000-1233) (Cambridge, 1912) archive.org
  • G. Sergi, ‘Una grande circoscrizione del regno italico: la marca arduinica di Torino,’ in Studi Medievali XII (1971), pp. 637-712
  • G. Sergi, ‘I poli del potere pubblico e dell'orientamento signorile degli Arduinici: Torino e Susa, in La contessa Adelaide e la società del secolo XI, a special edition of Segusium 32 (1992), pp. 61–76
  • H. Fichtenau, Heretics and Scholars in the High Middle Ages, 1000-1250 (1998).