エド・ブラー

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エド・ブラー
出生名 Edmund Wilbur Hudson Buller
生誕 (1962-08-09) 1962年8月9日(61歳)
出身地 イギリスの旗 英国イングランドサリー郡 ライゲート町英語版
ジャンル ロックブリットポップ
職業 音楽プロデューサー音楽家
担当楽器 キーボード
活動期間 1977年 - 現在
公式サイト 公式ウェブサイト

エドモンド・ウィルバー・ハドソン・“エド”・ブラー(Edmund Wilbur Hudson "Ed" Buller、1962年8月9日、イングランドサリー郡ライゲート町英語版生まれ)は、イギリス出身の音楽プロデューサー、元音楽家である。

主にスウェードパルプレインコーツザ・コーティナーズ英語版などのイギリスのバンドと仕事をしてきた。

来歴[編集]

作曲家の父ジョン・ブラーに連れられて、6歳の時にイーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」を見たのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。十代でザ・サイケデリック・ファーズキーボード奏者として参加し、数年間ツアーに同行した。バンド脱退後は原盤制作を始め、ロンドンのスタジオを渡り歩き、最終的にはアイランド・レコードの専属エンジニアとなる。ブラーがプロデュースした最初の成功作は、1993年のスウェードのデビュー・アルバムで、全英アルバムチャートで第一位を獲得し、マーキュリー賞も受賞した。その間に2枚の第一位アルバム(スウェードの『カミング・アップ英語版』とホワイト・ライズ英語版の『トゥ・ルーズ・マイ・ライフ英語版』)を制作し[1][2]ブリット・アワードの最優秀プロデューサー賞にノミネートされるなど、活躍の場を広げている。1995年、フラッド、ゲイリー・スタウト、デイヴ・ベッセルとともに、アナログ・シンセを多用したプロジェクト「ノード」(Node)に取り組み、シングル・アルバム『ノード』(Node)を制作(2014年に続編『ノード2』(Node 2)をリリース)。

1998年、ブラーは米カリフォルニアサンフランシスコ音楽院作曲管弦楽法を学んだ。

アンドリュー・クビシェフスキーとの共作で、t.A.T.u.の2枚目のアルバム『デンジャラス・アンド・ムーヴィング』(2005年)に収録された「ラブズ・ミー・ノット英語版」と、3枚目のアルバム『ウェイスト・マネジメント英語版』(2009年)に収録され、映画『ユー・アンド・アイ英語版』の作品名にもなった「ユー・アンド・アイ」(You and I)を提供した。

最近では、イギリスのバンドのホワイト・ライズ、ザ・コーティナーズ、ザ・チーク英語版ワン・ナイト・オンリー英語版ブリュッセルでのレコーディングや、2013年3月にスウェードの復活アルバム『ブラッドスポーツ英語版』、2016年1月に同バンド7枚目のアルバム『夜の瞑想英語版』を手がけている。

脚注・出典[編集]

  1. ^ White Lies Biography”. ユニバーサル ミュージック ジャパン. 2022年12月18日閲覧。 “ホワイト・ライズの3作目の制作において、もう1つの鍵となった成分であり、何が最も重要になるかの指針をもたらしてくれたのは、彼らが選んだプロデューサーだ。エド・ブラーはデビュー作「トゥ・ルーズ・マイ・ライフ(To Lose My Life)」のプロデュースを手掛けていたが、2作目には参加していなかった。チャールズが指摘する通り、「レーベル側は常に、誰か違う人とやってほしがってるんだ」。しかしホワイト・ライズは、自分達が何を実現したいのか、そしてそれには誰が必要なのか、自分達は分かっていると自信があった。エドが呼び寄せられたのは、制作に入ってから3ヶ月後のことだ。「彼とは5人目のメンバーのように接してるんだ」とチャールズ。「彼の言葉は、決して耳に優しくはない。でもそういう意見を歓迎してる。彼が曲に参加してくれるのは本当に最高さ」。”
  2. ^ ホワイト・ライズ、クラウディウス・ミッテンドーファーとエド・ブラーをプロデュースに起用した6th AL『As I Try Not To Fall Apart』リリース”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク (2021年10月12日). 2022年12月18日閲覧。 “バンドのデビュー・アルバム『To Lose My Life…』他、幾つかのアルバムを手掛けたエド・ブラーも数曲を手掛けた。”

外部リンク[編集]