インディーズムービー・フェスティバル

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インディーズムービー・フェスティバル
Indies Movie Festival
会場 日本の旗 日本 東京都
(第10回はパナソニックセンター東京
創設 1996年
賞名 グランプリ
期間 1996年 - 2008年
ウェブサイト https://www.indiesmoviefestival.com/movie/

インディーズムービー・フェスティバルIndies Movie Festival、略称:IMF)は、1996年から2008年まで日本で開催された自主映画映画祭である。運営会社は、ウェヴコ・プロデュース・カンパニィー。代表は、その運営会社の社長であり、総合プロデューサーの西村秀雄

概要[編集]

きっかけは、大阪市出身の自主映画監督の川上豊城が自らの自主制作した映画を、レンタルビデオ屋に無料で良いので置いてほしいと西村秀雄に持ち込んだことから始まり。「一本では話題にならないが、たくさん集めてコンペにしたら話題になる」と映像ソフトレンタルチェーン「TSUTAYA」に企画を通したことから始まる。西村秀雄が代表となり、川上豊城の協力を得て、「インディーズムービー・プロジェクト実行委員会」が運営する。(この、インディーズムービーという語源も、川上豊城の自主映画団体「インディーズムービー向上委員会」から影響を受けている。 全国から自主映画・映像作品を公募し、審査を経た約30から40作品を本選出場作品としてビデオ化(第6回からDVD化)し日本全国のTSUTAYAで貸し出し、衛星放送SkyPerfecTV)、ケーブルテレビ(衛星劇場)、BSデジタル放送(日本BS放送)、インターネット放送など各種メディアで公開し、期間中それを鑑賞した人が審査員となりレンタル回数やハガキ投票、インターネット投票などによりポイントを集計しグランプリおよびランキングを決定した。一般人が審査員となる映画祭のため選ばれる作品の作風に偏りもなく、ぴあフィルムフェスティバルのように作家性を強く求めておらず、あくまでもエンターテイメント性を追求した映画祭であった。

第1回のグランプリ受賞者は北村龍平監督となっているが。実際は短編を集めたビデオが、最も多くの票を集めた。ただし短編集は数人の監督の作品が混在していたため。当時、北村龍平と仲の良かった、川上豊城が、2位だった北村龍平に、「スカラシップを与えたら、独自に映画を作れますか」と尋ね、既に商業映画の製作経験があった北村龍平は快諾。グランプリ受賞という形で、スカラシップを得て、自らの資金集めで『VERSUS -ヴァーサス-』を監督する。この作品には、西村秀雄は総合プロデューサーとして名前は入っているが、実際は資金集めはしていない。また契約上は、儲かったらスタッフやキャストに分配するはずになっていたが、結局、儲けが分配されることはなかった。

第2回のグランプリ受賞者の山口洋輝監督は、スカラシップとして300万円の資金援助で映画『グシャノビンヅメ』の製作を開始するが、監督には商業映画経験がなく、事務局も第1回の時のようにお任せだったため、途中で破たん。何度かの「援助停止」を経験したあとに、収益の全利益をインディーズムービー・プロジェクト実行委員会が得ることで再開されるが、スタッフキャストに分配されることはなかった。

第3回の加納周典監督は、撮影寸前になっても約束された資金援助が得られず、そのやりとりの過程から援助はされないと判断し、スカラシップを辞退。企画を商業映画へ持ち込み『Rodeo Drive』を制作。 第4回の林田賢太監督は、『ブリュレ』を作るが、同じく数度の援助停止と再開を経たあと、援助作品としては公開されず。 第5回の中村拓監督は、『TheEARS』を同じく数度の援助停止と再開を経て作り上げるが、実質的な資金援助を受けることはなかった。 この作品が、実質的には、インディーズムービー・プロジェクト実行委員会の最後の援助作品となる。

第6回の準グランプリ受賞をした多積正之監督は、当初スカラシップ援助作品として『秘メ煙』を製作するも、実質的な資金援助を受けることはなく、金銭の絡まない名目的な援助作品として上映を行うこととなった。

ほかに入選者の中には、後にYUI主演『タイヨウのうた小泉徳宏監督や2007年公開の『キトキト!吉田康弘監督などがいた。

援助作品(ぴあフィルムフェスティバルのスカラシップのようなシステム)の権利を得た監督達が、事務局側と援助内容に関しての認識の相違から立て続けに権利を辞退した際、その監督達をIMF事務局および西村秀雄自身が、自分達の掲示板で辛辣に批判したこと、運営における体制や金銭面および、審査面での不透明性など、外部の人間が眉をひそめるような部分も見受けられた。実質、援助と言ってもほとんどの作品が資金提供を受けていない事から、プロダクションを自分たちで立ち上げる事の出来る監督たちからすれば、資金が出ない援助にこれといった魅力がなかったというのが大きな理由といえる。

これ以外にもDVD販売などから得られた収益は、映画制作への援助には当てられていないだけでなく、会場費用の未払いなど、問題の多い映画祭でもあった。

2008年8月、運営当初の予告通り全10回をもって終了。2010年より「「STAGE2」と称し再開される予定であったが、2010年7月19日に西村秀雄を代表とする事務局より開催の中止が発表された。

実行委員会調べで、第1回から第10回までの応募総数は4,786作品、入選総数は355作品、応募参加(出演者・スタッフ)総数は35,696人、総得票(観客)数は1,107,745人だった[1]

グランプリ監督[編集]

代表的な受賞者[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Indie’s Movie Project. (PDF) 2012年6月25日閲覧。

外部リンク[編集]