アムラーン

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アムラーン

عمران

ʿAmrān
アムラーンの位置(イエメン内)
アムラーン
アムラーン
イエメン国内のアムラーンの位置。
座標:北緯15度40分 東経43度57分 / 北緯15.667度 東経43.950度 / 15.667; 43.950
イエメンの旗 イエメン
英語版 アムラーン県
英語版 アムラーン郡英語版
占領 フーシ(アンサール・アッラー)
人口
(2012)
 • 合計 290,792人
等時帯 UTC+3 (イエメン標準時)

アムラーン(ʿAmrān、アラビア語: عمران‎; 南アラビア文字: 𐩲𐩣𐩧𐩬 ʿmrn)は、イエメン西部の中央に位置する、小さな都市。アムラーン県の県都であり、かつてはサナア県の県都であった。イエメンの首都サナアからは、道路で北西に 52.9キロメートル (32.9 mi) ほどの位置にある[1]2004年国勢調査によれば人口は 76,863人であり、2012年時点の推計人口は 90,792人であった[2]

歴史と建築[編集]

伝統的な泥造りの家。

この町の創建は、南アラビアのヒムヤル王国時代に遡る。サバア王国の時代には、町は発展して城壁を持つ砦となった。「アムラーン・ラブレット」と総称される当時の一連の青銅板は、19世紀半ばに発掘され、大英博物館に収蔵されている。特に、7世紀には、地域の複数の部族の総称としてのサバア人たちとの紛争を、大胆に闘い抜いた偉大な都市であった。かつて寺院や宮殿にあったとされる彫刻された石の遺物は、往時の栄光を伝えている。大きな石板の碑文が、町の西門(バブ・アル=カブール、Bab al-Kabir)付近で発見されている。スークと称される旧市場は、その石柱が有名である[3]。アムラーンは、1720年に完成した城壁で、四方を完全に囲まれている。町の周囲には、農地から肥沃な土壌が流出するのを防ぐために石積みの壁が設けられた段々畑のような景観が広がっている。

経済的発展[編集]

サナアから当地への道路は、中国の投資によって 200 km (120 mi) 以上にわたって近代化され、古い医療センターは、小規模な公共病院に改造された[4]。この都市は、周辺でコーヒー栽培が盛んな、豊かな土壌の地域にある[5]

イエメン内戦[編集]

1994年:内戦の引き金[編集]

1990年イエメン人民民主共和国(南)とイエメン・アラブ共和国(北)の統一により、イエメン共和国が成立したが、両国の体制の統合は順調に進まず、特に軍は、それぞれの指導層の私兵化し、統合が進まなかった[6]

1994年2月27日、アムラーンの南北共同軍事基地で両軍の衝突が起こり、それを機に1994年イエメン内戦が始まった[6][7]

2014年:フーシ派による占領[編集]

2014年2月、フーシ派勢力がアムラーンを封鎖し、7月に至って当地を完全に制圧した[8]。この結果、2万人以上が当地からの避難を余儀なくされ、残る市民も物資不足に苦しむ事態となった[8]。フーシ派の台頭は、2015年イエメン内戦の引き金を引いた。

脚注[編集]

  1. ^ Maps (Map). Google Maps.
  2. ^ Amran”. World Gazetteer. 2012年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月13日閲覧。
  3. ^ Hämäläinen, Pertti (1999-08-01). Yemen. Lonely Planet. ISBN 978-0-86442-603-1. https://books.google.com/books?id=RCYuAQAAIAAJ 2012年4月13日閲覧。 
  4. ^ McLaughlin, Daniel (2008-02-12). Yemen: The Bradt Travel Guide. Bradt Travel Guides. p. 107. ISBN 978-1-84162-212-5. https://books.google.com/books?id=eQvhZaEVzjcC&pg=PA107 2012年4月13日閲覧。 
  5. ^ McCulloch, John Ramsay; Haskel, Daniel (1845). M'Culloch's Universal gazetteer: Dictionary, geographical, statistical, and historical, of the various countries, places, and principal natural objects in the world (Public domain ed.). Harper & brothers. pp. 93–. https://books.google.com/books?id=DfoRAAAAYAAJ&pg=PA93 2012年4月15日閲覧。 
  6. ^ a b 平野真一 (1994年4月29日). “イエメンで旧南北両軍が衝突 首都北方の軍事基地 内戦突入の危険”. 読売新聞・東京朝刊: p. 6. "南北指導部の対立が深刻化するイエメンで二十七日から二十八日にかけ、南北両軍が砲撃などで激しく衝突、多数の死傷者が出た。... 戦闘が起きたのは、サヌア北方約五十キロのアムラン南北共同軍事基地。... 南北イエメンは九〇年五月に統一したが、保守的・部族主義的な北と社会主義国家イデオロギーの浸透した南が路線をめぐり対立。特に指揮系統、将兵の構成など完全に南北別の軍部は統合がまったく進まず、同じ地域に配備された両軍が双方指導部の私兵化して衝突を繰り返してきた。... 局地的衝突がこのまま続けば内戦化か南北再分裂に進む以外ないとの見方が強い。"  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  7. ^ 鈴木雅明 (1994年5月7日). “イエメンが再分裂状態に 内戦、旧国境付近で激化”. 読売新聞・東京朝刊: p. 5  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  8. ^ a b al-Hayat紙 (2014年7月11日). “イエメン:アムラーンから多数の避難民”. 東京外国語大学. 2020年11月8日閲覧。

座標: 北緯15度40分 東経43度57分 / 北緯15.667度 東経43.950度 / 15.667; 43.950