アミン・ジェジェ
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アミン・ジェジェ (満文:ᠠᠮᡳᠨᠵᡝᠵᡝ, 転写:amin jeje, 漢文:阿敏哲哲[1]、明安姐[2])は、ハダ・ナラ氏女真族。ハダ第二代国主ベイレフルガンの娘。[注 1]
万暦16年15884月、実兄ダイシャン (後のハダ第三代国主ベイレ) に附き添われてヌルハチ (後の清太祖) に婚嫁した。[3]『愛新覺羅宗譜』の「星源吉慶」冊[注 2]には「側妃哈逹納喇氏」として現れる。[4]
洞野で柳を射る[編集]
アミン・ジェジェ一行を出迎えにいったヌルハチは、洞城ドゥンイ・ホトン[1][注 3]の野に至った時、弓を佩び馬に乗って通り過ぎる者を見留めた。従者に拠れば、それは棟鄂ドンゴ部の者で、名を鈕翁金ニョウェンギェン[1]と謂い、弓の名手と名高く、当時部の中にその右に出る者はいなかった。それを聞いたヌルハチは、早速そのニョウェンギェンなる者を呼びに行かせ、戻って来たニョウェンギェンに100歩 (約160m) 離れた先の柳に矢を射させた。
ニョウェンギェンは挑戦を受け、馬から下りると柳に向かって五本の矢を射た。中ったのは三本で、矢の刺さった高さはばらばらであった。続いてヌルハチが射たところ、五本すべてが上下わずか五寸 (150cm) の範囲内に命中し、周囲はみな「神技」だと驚嘆したという。[3]
ヌルハチの五本の矢をみて周囲がどよめいていたところ、ちょうどアミン・ジェジェを連れた兄ダイシャン (後のハダ第三代国主ベイレ) が到着し、婚礼の酒宴が催された。[1][注 4]
脚註[編集]
典拠[編集]
- ^ a b c d “戊子歲15884月”. 滿洲實錄manju i yargiyan kooli. 2. p. 69
- ^ “總畧 (建夷)”. 三朝遼事實錄. 首巻. p. 15. "事在十九年正月,時,奴兒哈赤妻明安姐方歸,哭。兄歹商亦爲卜寨所擄取。索知再三,不與。轉開原爲代索,亦不與。於是,奴兒哈赤與北關絕。"
- ^ a b “戊子歲15884月1日”. 太祖高皇帝實錄. 2. p. 3
- ^ “側妃哈逹納喇氏”. 愛新覺羅宗譜. 星源吉慶 . "祜爾干貝勒之女戊子年1588四月來歸。"
- ^ “丁亥歲15868月”. 滿洲實錄. 2. p. 67
- ^ “ᡩᡠᠩ dung”. 新满汉大词典. p. 203 . "[名] 冻,栋鄂 (明末建州女真部落之一)。"
註釈[編集]
- ^ 参考:维基百科「阿敏哲哲」には「她是努尔哈赤继母、清显祖次夫人恳哲的侄女」とあるが、典拠不詳。『滿洲實錄』巻1には「側福金乃哈達國汗所養族女姓納剌名懇哲」とあり、ハダ初代国主・萬ワンにとって「族女」としている。「族ムクン」は同じ姓氏を名のる一族の意なので、萬ワンの実の娘ではない。実の娘でない以上、フルガンの実姉妹でもなく、従ってアミン・ジェジェとは伯叔母・姪の関係とはいえない。
- ^ 参考:皇帝の后妃についての記載を集めた冊。『宗譜』全8冊の首冊。
- ^ 参考:「洞」は地名で、アミン・ジェジェとの婚礼の前年に、ヌルハチ自ら兵を率いてその城を攻略している。[5]『新满汉大词典』には同じ発音で「凍」と表記される部落が挙がっているが、「棟鄂donggo部」との関係不詳。[6]
- ^ 参考:『滿洲實錄』では「洞」で婚礼の儀式を挙げることが初めから決まっていたことになっているが、『太祖高皇帝實錄』にそのような記載はなく、あくまでも出迎えの途中で至ったのが「洞」で、最終的にどこで婚礼の儀式を挙げたかまでは書かれていない。
文献[編集]
史書[編集]
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋版
- 『愛新覺羅宗譜』「星源吉慶」 *爱新觉罗宗谱网
- 趙爾巽『清史稿』清史館, 民国17年1928 (漢) *中華書局版
辞書[編集]
- 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社, 1994 (中)
Web[編集]
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学