いろは丸 (航運社)

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いろは丸 (いろはまる)は、明治時代に東京に存在した舟運会社・航運社が所有した蒸気船である。同名の船が4隻(「第一」から「第四」)存在し、1882年(明治15年)から利根川水系を経由して東京と小見川銚子鉾田を結ぶ航路に就航したが、地元舟運会社との競争に敗れて1884年には航路を撤退した[1]

概要[編集]

航運社は、1882年9月に林千尋ら5人によって、東京府神田区猿楽町に設立された[1][2][3]。3ヶ月後の12月の航路開設時にいろは丸は2隻(「第一」「第二」)が就航した[1]。2隻のいろは丸は従来二日間を要した東京・下利根川都市間を一日で結んだ。翌1883年には銚子、鉾田まで航路が延長された[1]

この当時、利根川水系には銚子汽船、吉岡廻漕店、内国通運などの舟運業者がすでに存在していた[4][5]。いろは丸はそれらとの競争にさらされることとなり、結局就航から2年後の1884年末をもって運航を終了した[1]

航運社では、航路に接続する形で利根川右岸の花野井(現・柏市)と江戸川左岸の加(現・流山市)をドコービル式鉄道で結ぶ計画を持っていたが、航路の撤退により実現しなかった[6]

各船の要目[編集]

※『印西の歴史』第三号による[7]

  • 第一いろは丸:全長21.7m、全幅2.9m、喫水1.0m、出力15馬力
  • 第二いろは丸:全長22.5m、全幅2.9m、喫水1.0m、出力15馬力
  • 第三いろは丸:全長12.2m、全幅2.3m、喫水0.9m、出力8馬力
  • 第四いろは丸:全長21.6m、全幅3.9m、喫水1.4m、出力15馬力

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 第三章 いろは丸の登場と衰微の予兆 - 木下まち育て塾(木下河岸物語)
  2. ^ 『川蒸気船銚子丸の誕生とその終焉』木下まち育て塾、2011年10月30日、9 - 10頁。
  3. ^ 『印西の歴史』第三号、印西市教育委員会、2001年3月、32頁。
  4. ^ 明治20年ごろの利根川の海運・交通について - レファレンス共同データベース(千葉県立図書館
  5. ^ 第二章 木下の蒸気船概要 - 木下まち育て塾(木下河岸物語)
  6. ^ 第四章 ドコーピル鉄道計画といろは丸 - 木下まち育て塾(木下河岸物語)
  7. ^ 『印西の歴史』第三号、印西市教育委員会、2001年3月、38頁(表16図、上段1行目から24行目の上段)

関連項目[編集]