「アレクサンドル・ケレンスキー」の版間の差分
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[[1917年]]2月[[サンクトペテルブルク]]におけるデモをきっかけに[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が開始されると、当時改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは、ペテルブルクの労働者[[ソビエト|ソヴィエト]]の副議長に任命された。その後臨時政府が組織されると、ソヴィエトを代表して入閣し法相に就任した。この時兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。5月には陸相に就任し、市民改革および[[第一次世界大戦]]の戦争継続を主張した。陸軍の総司令官を[[ミハイル・アレクセーエフ|アレクセーエフ]]から[[アレクセイ・ブルシロフ|ブルシロフ]]に代え、ドイツに対する攻勢を命令した([[ケレンスキー攻勢]])。しかし指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢に失敗し、逆に7月14日ドイツ東部軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面にわたり崩壊した。7月13日ブルシロフを更迭し[[コルニロフ]]を新たな総司令官に任命し、自身も首相の座についた。コルニロフは[[ボリシェヴィキ]]による混乱がロシア軍を危機に陥れていると考え、前線からサンクトペテルブルクに部隊を投入して[[クーデター]]を決行しようと試みた。9月9日ケレンスキーは彼の更迭を命令したが、コルニロフは[[コサック]]部隊を首都へと向かわせた。ケレンスキーはボリシェヴィキの[[赤軍]]に助力を要請、これを見たコサックは命令を拒否しコルニロフは逮捕されたが、臨時政府の影響力は低下しボリシェヴィキの勢力が増大することになった。 |
[[1917年]]2月[[サンクトペテルブルク]]におけるデモをきっかけに[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が開始されると、当時改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは、ペテルブルクの労働者[[ソビエト|ソヴィエト]]の副議長に任命された。その後臨時政府が組織されると、ソヴィエトを代表して入閣し法相に就任した。この時兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。5月には陸相に就任し、市民改革および[[第一次世界大戦]]の戦争継続を主張した。陸軍の総司令官を[[ミハイル・アレクセーエフ|アレクセーエフ]]から[[アレクセイ・ブルシロフ|ブルシロフ]]に代え、ドイツに対する攻勢を命令した([[ケレンスキー攻勢]])。しかし指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢に失敗し、逆に7月14日ドイツ東部軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面にわたり崩壊した。7月13日ブルシロフを更迭し[[ラーヴル・コルニーロフ|コルニーロフ]]を新たな総司令官に任命し、自身も首相の座についた。コルニーロフは[[ボリシェヴィキ]]による混乱がロシア軍を危機に陥れていると考え、前線からサンクトペテルブルクに部隊を投入して[[クーデター]]を決行しようと試みた。9月9日ケレンスキーは彼の更迭を命令したが、コルニーロフは[[コサック]]部隊を首都へと向かわせた。ケレンスキーはボリシェヴィキの[[赤軍]]に助力を要請、これを見たコサックは命令を拒否しコルニーロフは逮捕されたが、臨時政府の影響力は低下しボリシェヴィキの勢力が増大することになった。 |
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10月上旬[[フィンランド]]から帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府の打倒を呼びかけた。これを聞いたケレンスキーは10月24日早朝に、士官学校生徒などを用いてボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。しかし[[レフ・トロツキー|トロツキー]]率いる赤軍はこれに直ちに反応し、印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領した。情勢の不利を悟ったケレンスキーはペテルブルクを脱出、彼はこの時女装し、アメリカ国旗がはためく車に乗っていたといわれる。[[プスコフ]]に逃れた彼は、この地の騎兵部隊を率いて再び首都へ帰還しようと試みた。[[ツァールスコエ・セロー]]を占領したもものの赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後フランスに亡命した。 |
10月上旬[[フィンランド]]から帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府の打倒を呼びかけた。これを聞いたケレンスキーは10月24日早朝に、士官学校生徒などを用いてボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。しかし[[レフ・トロツキー|トロツキー]]率いる赤軍はこれに直ちに反応し、印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領した。情勢の不利を悟ったケレンスキーはペテルブルクを脱出、彼はこの時女装し、アメリカ国旗がはためく車に乗っていたといわれる。彼を除く臨時政府の閣僚はすべて逮捕され、[[1918年]]に処刑された。[[プスコフ]]に逃れた彼は、この地の騎兵部隊を率いて再び首都へ帰還しようと試みた。[[ツァールスコエ・セロー]]を占領したもものの赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後フランスに亡命した。 |
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== 亡命 == |
== 亡命、そして死 == |
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彼はその後も終始一貫として[[白軍]]を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難した。その後、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]は「'''ピエロ'''」のコードネームを付けて彼を監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。 |
彼はその後も終始一貫として[[白軍]]を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難した。その後、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]は「'''ピエロ'''」のコードネームを付けて彼を監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。 |
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また革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいて、ユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。 |
また革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいて、ユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。 |
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ケレンスキーは[[1970年]]に[[ニューヨーク]]で死去したが、[[ロシア正教会]]および[[セルビア正教会]]から埋葬を拒否され、現在 |
ケレンスキーは[[1970年]]に[[ニューヨーク]]の自宅で死去した。10月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。ところが、ニューヨークの[[ロシア正教会]]および[[セルビア正教会]]からは、ボリシェヴィキによる政権奪取の責任を問われて埋葬を拒否され、彼の遺体は現在[[ロンドン]]に埋葬されている。 |
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== 参考文献 == |
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*ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(上下二巻)、白須英子訳、日本放送出版協会、1995年 |
*ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(上下二巻)、白須英子訳、日本放送出版協会、1995年 |
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(特に上巻を参照) |
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* [http://www.stanfordalumni.org/news/magazine/2001/janfeb/features/kerensky.html An account of Kerensky at Stanford in the 1950s] |
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* [http://www.kerensky.org.uk/ Alexander Kerensky Museum in London] |
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*[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Kerensky&GSfn=Alexander+&GSbyrel=all&GSdyrel=all&GSob=n&GRid=6532415& Alexander Kerensky] - Find A Grave |
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[[Category:ロシア革命]] |
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2007年12月5日 (水) 06:08時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Aleksandr_Fedorovich_Kerensky.jpg/190px-Aleksandr_Fedorovich_Kerensky.jpg)
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー(アレクサーンドル・フョードロヴィチ・ケーレンスキイ;ロシア語: Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренскийアリクサーンドル・フョーダラヴィチ・キェーリェンスキイ,1881年4月22日(ロシア旧暦、グレゴリオ暦では5月2日) - 1970年6月11日)は、ロシアの政治家。ロシア革命の指導者の1人で、臨時政府首相を務めた。社会革命党党員。
生い立ち
ロシアのシンビルスク(今のウリヤノフスク)に生まれる。父フョードルはカザン大学の校長であったが、その生徒の中にウラジーミル・ウリヤーノフ(後のレーニン)がいたことは歴史の皮肉と言っていいであろう(レーニンの兄アレクサンドルの処刑後も、彼はウラジーミルを擁護していた)。ペテルブルク大学を卒業。弁護士として働き、1912年に社会革命党(SR)議員となった。
ロシア革命
1917年2月サンクトペテルブルクにおけるデモをきっかけに2月革命が開始されると、当時改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは、ペテルブルクの労働者ソヴィエトの副議長に任命された。その後臨時政府が組織されると、ソヴィエトを代表して入閣し法相に就任した。この時兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。5月には陸相に就任し、市民改革および第一次世界大戦の戦争継続を主張した。陸軍の総司令官をアレクセーエフからブルシロフに代え、ドイツに対する攻勢を命令した(ケレンスキー攻勢)。しかし指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢に失敗し、逆に7月14日ドイツ東部軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面にわたり崩壊した。7月13日ブルシロフを更迭しコルニーロフを新たな総司令官に任命し、自身も首相の座についた。コルニーロフはボリシェヴィキによる混乱がロシア軍を危機に陥れていると考え、前線からサンクトペテルブルクに部隊を投入してクーデターを決行しようと試みた。9月9日ケレンスキーは彼の更迭を命令したが、コルニーロフはコサック部隊を首都へと向かわせた。ケレンスキーはボリシェヴィキの赤軍に助力を要請、これを見たコサックは命令を拒否しコルニーロフは逮捕されたが、臨時政府の影響力は低下しボリシェヴィキの勢力が増大することになった。
10月上旬フィンランドから帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府の打倒を呼びかけた。これを聞いたケレンスキーは10月24日早朝に、士官学校生徒などを用いてボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。しかしトロツキー率いる赤軍はこれに直ちに反応し、印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領した。情勢の不利を悟ったケレンスキーはペテルブルクを脱出、彼はこの時女装し、アメリカ国旗がはためく車に乗っていたといわれる。彼を除く臨時政府の閣僚はすべて逮捕され、1918年に処刑された。プスコフに逃れた彼は、この地の騎兵部隊を率いて再び首都へ帰還しようと試みた。ツァールスコエ・セローを占領したもものの赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後フランスに亡命した。
亡命、そして死
彼はその後も終始一貫として白軍を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難した。その後、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けて彼を監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。
第二次大戦の危機が迫ると、フランスから米国に亡命し、1940年代以降、米国内で大学講師や、研究所の職員などをしながら職を転々と渡り歩いた。
また革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいて、ユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。
ケレンスキーは1970年にニューヨークの自宅で死去した。10月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。ところが、ニューヨークのロシア正教会およびセルビア正教会からは、ボリシェヴィキによる政権奪取の責任を問われて埋葬を拒否され、彼の遺体は現在ロンドンに埋葬されている。
参考文献
- アレクサンドル・ケレンスキー『ケレンスキー回顧録』 倉田保雄、宮川毅 訳、恒文社、1977年、ISBN 4770401353
- ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(上下二巻)、白須英子訳、日本放送出版協会、1995年
(特に上巻を参照)