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'''ジャン・レオン・ジョレス'''('''ジョーレス'''、'''Jean Léon Jaurès'''、本名:'''オーギュスト・マリ・ジョゼフ・ジャン・レオン・ジョレス'''、'''Auguste Marie Joseph Jean Léon Jaurès'''、[[1859年]][[9月3日]] - [[1914年]][[7月31日]])は、[[フランス]]の[[社会主義者]]、[[政治家]]。雄弁家として知られ、[[第一次世界大戦]]に反対するが、狂信的な国家主義者に暗殺された。 |
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[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]で学び、[[1883年]]から[[1885年]]に[[トゥールーズ大学]]の哲学教授であった。[[1885年]]から1889年に下院議員の中央左派に属したが、2回目の議員のとき([[1893年]]~[[1898年]])に社会主義者となる。《La petite République》誌の編集に携わり、下院社会主義政党の指導者となって、その統一に努力した。 |
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ジョレスは当初、政治思想として穏健共和主義を支持し、[[ジョルジュ・クレマンソー]]に代表される[[急進主義]]や[[社会主義]]に反対する立場を取っていた。そのジョレスが社会主義者に転向したのが[[1890年代]]後半とされる。ジョレスは、[[1892年]]タルヌ県カルモー [[w:Carmaux|Carmaux]]で社会主義者と見なされた鉱山労働者が解雇されたことが原因で[[ストライキ]]が起きた際、ストを強力に支援した。翌[[1893年]]下院選挙にアルビから立候補し再選された。しかし、これもつかの間、4年後の[[1898年]]総選挙では再び落選の憂き目に会う。しかし、落選中の4年間、その卓越した雄弁と知性によって左翼政治家の筆頭として存在感を増していった。ジョレスは、''La petite République''誌の編集に携わり、[[ドレフュス事件]]では、被告[[アルフレッド・ドレフュス|ドレフュス]]側に立って、ドレフュス擁護の論陣を張り活躍した。[[ルネ・ワルデック=ルソー]]内閣に社会主義者として初めて入閣した[[アレクサンドル・ミルラン]](のちに大統領)に関しては、ブルジョワ内閣に包含されたとして批判する[[ジュール・ゲード]]派などが存在したが、ジョレス自身はミルランを支持している。 |
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社会主義政党分裂後、[[1899年]]にフランス社会党に属し、[[1902年]]から[[1914年]]まで下院議員であった。[[1904年]]に《ユマニテHumanité》誌を創刊、編集し、[[1905年]]〈統一社会党〉の創立に尽力した。[[社会改良主義]]を主張し、急進的な[[マルクス主義]]派とは対立。著名な雄弁家で、圧倒的な大衆の人気を誇る。 |
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若き[[ロラン・バルト]]もジョレスの支持者だった。 |
若き[[ロラン・バルト]]もジョレスの支持者だった。 |
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== 参考 == |
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*{{1911}} |
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== 主著 == |
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前記以外 |
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*''De primis socialismi germanici lineamentis apud Lutherum, Kant, Fichte et Hegel'',1891年 |
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== 外部リンク == |
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{{Commons|Jean Jaurès}} |
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*[http://www.things.org/music/al_stewart/history/jean_jaures.html Jean Jaures] |
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*[http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/FWWjaures.htm Jean Jaures Biography] |
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*[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=7513 Jean Jaurès at Find-A-Grave] |
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*{{en icon}} [http://www.marxists.org/archive/jaures/index.htm Jaurès' texts at Marxists archives] |
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[[category:フランスの政治家|しよれす しやん]] |
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2007年10月16日 (火) 10:19時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Jean_jaures.jpg/220px-Jean_jaures.jpg)
ジャン・レオン・ジョレス(ジョーレス、Jean Léon Jaurès、本名:オーギュスト・マリ・ジョゼフ・ジャン・レオン・ジョレス、Auguste Marie Joseph Jean Léon Jaurès、1859年9月3日 - 1914年7月31日)は、フランスの社会主義者、政治家。雄弁家として知られ、第一次世界大戦に反対するが、狂信的な国家主義者に暗殺された。
初期の経歴
1859年9月3日タルヌ県のカストルで、貧しいビジネスマンの息子として生まれる。ルイ・ルグラン学院を経て、高等師範学校で学び、哲学の学位を得る。その後、2年間アルビのリセを経て、1883年から1885年にトゥールーズ大学の哲学教授として教壇に立った。 1885年下院(代議院)選挙にタルヌ県から立候補し当選する。下院では中道左派会派に属したが、1889年落選した。落選中は、再びツールーズに戻り学究生活を送った。この間、ツールーズ大学医学部設立に尽力している。De primis socialismi germanici lineamentis apud Lutherum, Kant, Fichte et Hegel (1891年)と、De la réalité du monde sensibleの二論文で哲学博士号取得。
社会主義者として
ジョレスは当初、政治思想として穏健共和主義を支持し、ジョルジュ・クレマンソーに代表される急進主義や社会主義に反対する立場を取っていた。そのジョレスが社会主義者に転向したのが1890年代後半とされる。ジョレスは、1892年タルヌ県カルモー Carmauxで社会主義者と見なされた鉱山労働者が解雇されたことが原因でストライキが起きた際、ストを強力に支援した。翌1893年下院選挙にアルビから立候補し再選された。しかし、これもつかの間、4年後の1898年総選挙では再び落選の憂き目に会う。しかし、落選中の4年間、その卓越した雄弁と知性によって左翼政治家の筆頭として存在感を増していった。ジョレスは、La petite République誌の編集に携わり、ドレフュス事件では、被告ドレフュス側に立って、ドレフュス擁護の論陣を張り活躍した。ルネ・ワルデック=ルソー内閣に社会主義者として初めて入閣したアレクサンドル・ミルラン(のちに大統領)に関しては、ブルジョワ内閣に包含されたとして批判するジュール・ゲード派などが存在したが、ジョレス自身はミルランを支持している。
社会主義政党分裂後、1899年にフランス社会党に属し、1902年から1914年まで下院議員であった。1904年に《ユマニテHumanité》誌を創刊、編集し、1905年〈統一社会党〉の創立に尽力した。社会改良主義を主張し、急進的なマルクス主義派とは対立。著名な雄弁家で、圧倒的な大衆の人気を誇る。
第一次世界大戦直前のナショナリズムの高揚の中で、帝国主義戦争に反対し和平への呼びかけを勧めたために、熱狂的な愛国者ラウール・ヴィラン(Raoul Vilain)に暗殺された。それは、第1次世界大戦が勃発し、フランスが総動員体制に入る前日のことであった。
労働者と農民の立場から見た社会史としては初めての試みの一つである、大著『フランス大革命史 Histoire socialiste de la Révolution Française,1901-04年』4巻は、後のジョルジュ・ルフェーブル、アルベール・マティエのフランス革命研究に刺激を与えた。
若きロラン・バルトもジョレスの支持者だった。
参考
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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主著
- De primis socialismi germanici lineamentis apud Lutherum, Kant, Fichte et Hegel,1891年
- De la réalité du mond sensible,1891年
- Le socialisme et l'enseignement,1899年
- Etudes socialiste,1902年
- Histoire de la République française,1901-08年(編集)