高梨政盛
時代 | 戦国時代前期 |
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生誕 | 康正2年(1456年) |
死没 | 永正10年4月27日(1513年5月31日) |
官位 | 摂津守 |
氏族 | 清和源氏満季流高梨氏 |
父母 | 父:高梨政高、母:不明 |
兄弟 | 女子(泉政重室)、政盛、女子(長尾能景室)? |
妻 | 正室:保科氏の娘? |
子 | 高梨澄頼、女子(中条藤資室) |
高梨 政盛(たかなし まさもり)は、戦国時代の武将。信濃中野を拠点とする高梨家の当主。父は高梨政高。子に澄頼、中条藤資正室。父と同じく将軍足利義政より偏諱の授与を受け、諱(実名)を政盛とする。受領名は摂津守。正室は保科氏から迎えたといわれている。
生涯
信濃中野小館(現在の長野県中野市)の国人領主。長尾氏と高梨氏とは縁戚関係にあり、政盛は上杉謙信の曽祖父(大叔父?)にあたる。
明応4年(1495年)に善光寺を巡って村上政清との間で争いとなって同寺を焼失させた。この際に政盛は澄頼とともに善光寺の本尊を本拠地に持ち帰ったとされている。
永正4年(1509年)に外戚である長尾為景が、上条定実を擁して上杉房能に謀反を起こした際(永正の乱)もこれに加担、共に房能を自刃に追い込み(天水越の戦い)、房能の実兄の関東管領・上杉顕定が為景征伐の軍を率いて越後に侵攻した際も為景に同心し、永正7年(1510年)の長森原の戦いで顕定を自刃に追い込むなど、勝利に貢献した。
その後も中野の旧領主である中野氏を滅ぼすなど勢力を拡大したが、永正10年(1513年)に死去。後を子の高梨澄頼が継いだ。
地元の黒姫伝説という伝承に、黒姫の父である高梨摂津守政盛として登場する(政盛ではなく政頼が登場する場合もある)。
なお、為景と政盛は34歳違い(為景1471年生説であれば15歳違い)であり、外孫という説もあるが、むしろ甥である可能性が高い。
関連項目
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