顧譚

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顧 譚(こ たん、生没年不詳)は、三国時代武将政治家に仕えた。子黙顧雍の孫。顧邵の子。顧承の兄。陸遜の甥(「陸遜伝」)。『三国志』呉志「顧雍伝」などに記録がある。

父は評判が高い人物で、孫策の娘を娶るなど将来を嘱望された人材であったが、豫章太守在任時に早く亡くなった。

顧譚は孤高な性格で他人と交わろうとしなかったが、顧譚の上疏を初めて聞いた孫権はただちにその才能を見抜き、当時、お気に入りの側近の一人であった徐詳にも勝る人物と称え、特別な待遇や恩賞を与えたという(『呉書』)。

呉祺(呉景の子)や張温と親しく、孫権に訴訟の取りさばきを依頼されたこともあるという(「呉夫人伝」が引く『呉書』)。

20歳ぐらいのとき、諸葛恪張休陳表とともに、孫登の太子四友となった。後に、陸機は孫登の元に集まった俊才は数多くいたが、顧譚はその中でも見識において特に優れていたと、これを賞賛している。孫登からの評価も高かったが、後に太子賓友となった南陽の羊衜からはあまり評価されなかったという(「呉主五子伝」が引く『江表伝』)。中庶子、舗正都尉となった。

237年春正月、親の服喪のために職務放棄する者が後を絶たないため、厳罰を処すべきかどうかが議論となった。顧譚はそこで自分の意見を述べた(「呉主伝」)。

赤烏年間に諸葛恪に代わり左節度となる。帳簿を検査するときは算木を用いず暗算で仕事をこなすなど実務能力にすぐれ、部下に信頼された。

奉車都尉の官を加えられた。薛綜は選曹尚書に任命されたとき、固辞して顧譚に役目を譲ろうとしたことがある。薛綜が選曹尚書を退任になると、後任の選曹尚書は顧譚となった。このとき、祖父に連れられて一族とともに孫権との酒宴に参加し、酔って強かに羽目を外したため、祖父に叱責を受けたこともあるという(『江表伝』)。

241年、皇太子であった孫登が死去した。孫登は遺言の中で用いるべき人材の1人として顧譚の名を挙げた(「呉主五子伝」)。

243年、祖父の死後、平尚書事に任命される。

孫権が魯王・孫覇を寵愛し、太子の孫和と同様の待遇を与えると、長幼の序をはっきりさせるよう諫言した。このことで、孫覇との関係が不仲となった。また、魯王派の一人である全寄とは元々性格の面で不仲であったが、折り悪く241年との芍陂の役の恩賞をめぐって、全寄の父で呉の重鎮である全琮一族と顧譚の弟の顧承、それに友人の張休が対立してしまう。全寄は父と図り顧譚らを讒言で失脚させ、交州への流罪に追い込んだ。このとき、全琮父子の抗議を受けて孫権は張休は処罰せざるを得ないと考えたが、顧譚の才能は惜しかったため、顧承を許すために顧譚を群臣の前で謝罪させることを考えたが、顧譚はそれを堂々と拒絶し、名指しはしなかったが讒言者を堂々と批判したという(『呉録』)。役人は顧譚には出鱈目を述べた不敬の罪があり死刑に相当すると報告したが、孫権は流罪で済ませたという(『江表伝』)。

顧譚は悲しみを込めて『新言』二十篇を著した。流されてから2年目に、42歳で死去した。

小説『三国志演義』には登場しない。