全ソウ

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全琮(ぜん そう、生年不詳 - 247年または249年)は、中国三国時代の武将。揚州呉郡銭唐県の人。子璜。父は全柔。子は全緒・全寄・全懌・全呉。孫は全輝・全禕・全儀・全静。甥は全端・全翩・全緝。妻は孫魯班(全公主)。『三国志』呉志に伝がある。

経歴[編集]

若き日[編集]

父は霊帝の時代に孝廉に推挙され、尚書郎右丞となったが、董卓の乱で朝廷が乱れると官職を捨て故郷に戻った。故郷の揚州でも別駕従事に推挙され、さらに詔勅により会稽東部都尉に任命された。孫策が挙兵し呉郡に兵を進めると、父は真っ先にその配下となり、孫策の推挙により丹陽都尉に任命された。引き続き孫権にも仕え、孫権が車騎将軍に任命されるとその長史となり、桂陽太守まで昇ったという。

ある時、全琮は父の命令で呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全琮はその米を民に数千石程施した。父は怒ったが、全琮は士人が苦しむのを見かねたためだと謝ったのを見て、かえって子の非凡さを認識した。

戦乱を避けて中原から逃れた数百家族に、全琮は家財を傾けて援助した事から、全琮の名は遠近に轟いた。

その後、孫権に仕えて奮威校尉に任命され、1000人の兵士を率いて山越討伐に従事し、募兵して兵士1万を得た。牛渚に駐屯する事になり、官位はやがて偏将軍まで昇進した。

この間、一時呉郡に滞在していた龐統と交際し、その知己を得ている(「龐統伝」)。

頭角を現す[編集]

219年劉備の部下である関羽が北上し、曹操の部下曹仁が守備する樊城を包囲すると(樊城の戦い)、全琮は関羽討伐の計略を上疏した。この時、孫権は既に呂蒙と関羽攻略の計画を立てていたため、事が漏れるのを恐れて上表を無視したが、関羽攻略後、公安において開いた祝宴で、全琮は孫権から「今日の勝利はあなたの手柄でもある」と声をかけられた。陽華亭侯に封じられた。

この頃、揚州の地位に呂範が就いていた。全琮は陸遜ら揚州の名族の子弟とともに呂範の風下に置かれるような立場であったという(「呂範伝」)。

222年、皇帝を称した曹丕との講和が決裂、11月の魏の揚州方面からの侵攻を、呂範の指揮下で徐盛らと共に防いだ(洞口の戦い)。この時、徐盛と共に敵の臧覇を追撃し尹盧を斬る功績を挙げ、綏南将軍となり、銭唐侯に封じられた。

銭唐において賊の彭式が略奪を働くと、周魴を銭唐の相に起用し鎮圧させた(「周魴伝」)。

225年、仮節を与えられ、九江太守に任命された。

226年、丹陽・会稽・呉の三郡の情勢が不穏であったため、その対策のため孫権は10県を分割して東安郡を新設した(「呉主伝」)。全琮はその東安郡の太守に任命された。全琮は賞罰を明確にし、山越に降伏を呼びかけて、1万余人の山越を帰順させた。役所は富春に置かれ(『呉録』)、また太守の任務を解かれて戻る時、故郷の銭唐に立ち寄り、先祖の慰霊の祭りを膨大な財力により盛大に行ったという(『江表伝』)。

228年、孫権は魏の曹休を計略により誘き出し、これを迎撃した。全琮は陸遜の統率の下で3万の兵を率いて軍の右翼を担い(左翼は朱桓)、石亭において曹休を大いに破った(石亭の戦い)。

呉の重臣へ[編集]

229年衛将軍・左護軍・徐州牧に任命された。さらに孫権の娘であった孫魯班を与えられ、その娘婿になっている。彼女との間に全呉を儲けている。全琮の待遇は、張昭劉基の遺族と同等であったという(「劉繇伝」)。

230年、孫権は衛温諸葛直を珠崖・夷州に軍を進めて住民を連行しようとした(「呉主伝」)。全琮はこれを諌めたが孫権は聞き入れなかった。果たしてこの計画は成果を挙げる事ができず、失敗に終わっている。

また、孫権が子の孫登に軍を率いさせ出征させようとした事があった。群臣達は誰もこれを諌めようとしなかったが、全琮だけは密かに孫権に諫言した。孫権は即座に孫登に引き返させ、人々は全琮を国家の節義を守った者として称賛したという(『江表伝』)。

233年、歩兵と騎兵5万を率いて六安を討伐した。逃走した六安の住民を捕らえようとする諸将を戒めた。

ある時、全琮は朱桓と作戦をめぐって口論となった。全琮は、孫権の命令で作戦に参与していた胡綜に責任を擦り付けたところ、朱桓の怒りは胡綜に向けられ、その乱暴により多くの者が死傷、朱桓も一時孫権の下に召喚される事件となった(「朱桓伝」)。

239年諸葛瑾歩騭らが中心となり、周瑜の子周胤を復帰させようとする動きがあった。全琮は朱然とともにこれに同調し、孫権の心も動いたが、周胤が死去してしまったため、周氏の復活は果たせなかった。全琮はなおも、周瑜の従兄弟の周峻の子である周護という人物を推挙し、周氏を復活させようとしたが、周護が孫権の意に沿わない人物であったため、これも実現しなかった(「周瑜伝」)。

241年、全琮は魏の揚州の拠点である寿春に侵攻し、芍陂の堤防を決壊させ、兵糧庫を焼き住民を捕虜にした。この戦いは同時に荊州方面において、朱然らに魏の樊城を包囲させ、諸葛瑾らに柤中を占領させるという大規模な作戦であったが、蜀漢の協力も得られず、全琮らは魏の王凌との会戦の末、中郎将の秦晃を戦死させるなど苦戦し、戦果を挙げる事はできなかった。5月に魏の司馬懿が樊城の救援に駆けつけると、翌6月に呉軍は撤退した(芍陂の役)。

二宮の変[編集]

全琮は、孫和孫覇による孫権の後継者争い(二宮の変)において、妻の魯班と次男の全寄が孫覇(魯王)派であった事から、歩騭や呂岱らとともに孫覇の立太子を支持したとされている(「呉主五子伝」が引く『通語』)。

当初は孫和と孫覇との対立を憂慮し、武昌を守備する陸遜に手紙を送って首都の様子を報告していたが、全琮が全寄を孫覇の家臣とさせている事を知った陸遜は、「全寄の行動を擁護していては、家に災いをもたらす事になる」と忠告した。全琮はこれを受け入れず、陸遜と険悪な仲になったという(「陸遜伝」)。

孫和(太子)派でもある張休・顧承(顧雍の孫)と、全端(全琮の兄の子)ら全一族は、先の芍陂の役の恩賞を巡り対立した。全寄はかねてより後継問題を巡って、顧承の兄顧譚と不仲であったことから、全琮を巻き込んで顧譚らの事を孫権に讒言し、交州への流罪に追い込んだという。(「顧雍伝附顧譚伝」、およびそれが引く『呉禄』)。

245年には孫和派の重鎮であった陸遜も孫権と対立し憤死した。246年に右大司馬(全琮伝では右軍司馬・左軍師)に昇進した。政争には勝利したものの、孫和廃立後の孫覇立太子までは実現できなかった。

その後、全琮は死去した。なお全琮の没年は、247年春正月(呉主伝)・249年春正月(全琮伝)・249年冬(『建康実録』。なお、享年52とされているが正史には記載がなく、根拠は不明である)とその記述が揺れている。後に孫権は孫覇を自害させ、それに連座して全寄も自殺させた。

長男の全緒は孫亮の時代まで生き、武将として活躍した。末子の全呉は孫権の外孫でもあり、都郷侯に封じられている。三子の全懌が全琮の跡を継いだが、257年5月、魏の諸葛誕の反乱の援軍に全端とともに赴いた時、諸葛誕とともに寿春城で孤立無援となり、12月に魏に降伏した。それより前の11月、全緒の子の全禕・全儀は所領を巡って内紛を起こし、母親を連れて魏に亡命している。残った全氏一族である全尚は娘を孫亮に嫁がせていたが、子の全紀と共に孫綝排除計画に加担して失敗し、逆に孫綝に殺害された。全公主も失脚し、豫章に流されたという。

評価[編集]

部将としては勇気と決断力を備え、命を惜しまなかったが、軍の指揮官になると緻密に作戦を立て、慎重に振る舞い、小さな利益を追うような事はしなかったという(『呉書』)。

陳寿は全琮の事を、時代を背負う才能があったと称えたが、子の悪事を野放しにし、世間から謗られ名誉を失ったとも評した。

晩年の全琮は、二宮事件において孫覇側に加担したため、裴松之には同じく『通語』において孫覇派の一員として挙げられた呂岱と共に、「論ずる必要も無い悪人」とまで蔑まれている(「呉主五子伝」の注)。

陸遜の孫陸機が、呉滅亡を嘆いて著したという『弁亡論』において、呉を支えた家臣達の名が列挙されているが、全琮の名は見当たらない。

家系[編集]

全柔
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全琮           ?       
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全緒 全寄 全懌 全呉  全端
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全禕 全静 全儀全尚全紀との続柄は不詳である。