韓勝源

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韓 勝源
各種表記
ハングル 한승원
漢字 韓勝源
発音: ハン・スンウォン
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韓 勝源(ハン・スンウォン、1939年10月13日 - )は、韓国小説家。その作品の傾向は、「土俗的」であり、「恨(ハン)的」である、と評されている。韓の創作世界は、全羅道を主な舞台に繰り広げられ、風刺や史実を交えている。娘にブッカー国際賞受賞者の小説家韓江がいる。

略歴

1939年10月13日、全羅南道長興郡大徳面新上里に生まれる。本貫清州韓氏[1]。8兄妹の次男。幼い頃は祖父より『明心宝鑑』を学ぶ。国民学校に入学するまでは、数字も文字も習わなかった。長興中学校を経て、1954年長興高等学校に入学する。高校時代は、文芸班に入り、キム・ヨンスル(김용술)教師や宋基淑と出会う。1955年、宋基淑と校内誌『抑仏』を出し、そこに随筆を載せる。こうして、韓は文学修業を始める。また、この時期、韓の父が交通事故で仕事ができなくなり、生活が非常に苦しくなった。文学修業に熱中したためか、大学受験に失敗し、高校卒業試験を受けたあと、卒業証書も受け取らず、故郷に引きこもった。

1956年、高校を終えると、実家で農業を手伝いながら、文学修業と教職免許の取得のための勉強をする。小説の作法を学ぶため、呉有権のところに訪問したりもした。教職試験は失敗し、しばらく農作業を続けたが、進学するべきだと心に決め、大学入試の勉強を始める。1961年ソラボル芸術大学に入学する。ソラボル芸大では、金東里が教授する講義の中で、李文求朴常隆趙世熙姜好武韓相潤李健清河賢埴張孝文趙貞子郭賢淑白寅斌金源一梁文吉慎重信など後に文士となる多くの人物と出会う。トルストイヘミングウェイアンドレ・ジッドサルトルカミュなどを耽読しながら、2週間に1篇ずつ、小説を習作しては金東里に師事を仰いだ。そうして金東里と韓は師弟の関係となる。

1962年、学業を終えて帰郷するとすぐ、兵役についた。1965年、イム・ガモ (임감오)と出会い、結婚すると、妻の実家で暮らしながら習作を続ける。そして、1966年、「가증스런 바다 (憎らしい海)」が『新亜日報』に入選し、文壇にデビューする。同年、長東西国民学校に教師として赴任し、妻家も離れ、新婚生活を始めた。一方、韓の父が死亡する不幸にも見舞われる。しばらく筆を置いていたが、1968年に「木船」が『大韓日報』に当選することで、韓の小説家としての生活が本格化していく。故に、「木船」をもって韓のデビュー作とする場合もある。1972年、光州の文人で「小説文学」という同人会を作る。文淳太金新雲カン・スンシク (강순식)、李啓弘などが同人として「小説文学」で文学修業を共にした。

韓は、その後も旺盛な執筆活動を続け、1980年に、「구름의 벽 (雲の壁)」で韓国小説文学賞を受賞したのを皮切りに、韓国文学作家賞大韓民国文学賞など、多くの文学賞を受賞した。

年譜

代表作品

  • 불의 딸文学と知性社、1983年
  • 포구正音社、1984年
  • 아제아제 바라아제三星出版社、1985年
  • 아버지와 아들ナナム、1989年
  • 해일
  • 시인의 잠
  • 동학제
  • 아버지를 위하여
  • 해산 가는 길
  • 멍텅구리배
  • 사랑
  • 물보라
  • 초의
  • 흑산도 하늘 길
  • 원효
  • 키조개
  • 해신의 늪』(日本語訳 「海神の沼」 姜尚求 1992)

日本語で読める作品

脚注

  1. ^ (10)청주 한씨(淸州韓氏)-642,992명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月6日). 2022年8月16日閲覧。