霧島神宮
霧島神宮 | |
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勅使殿・幣殿・拝殿 | |
所在地 | 鹿児島県霧島市霧島田口2608番地5号 |
位置 | 北緯31度51分32.2秒 東経130度52分18.7秒 / 北緯31.858944度 東経130.871861度 |
主祭神 | 天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊 |
社格等 | 式内小社論社・旧官幣大社・別表神社 |
創建 | 伝欽明天皇朝(6世紀) |
本殿の様式 | 入母屋造杮葺 |
札所等 | 霧島六社権現 |
例祭 | 9月19日 |
霧島神宮(きりしまじんぐう)は鹿児島県霧島市霧島田口にある神社。旧社格は官幣大社[1]。
祭神
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊を主祭神に以下の5柱を配祀する[1]。
由緒
欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。
しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。天暦年間には性空により瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に遷されるが、ここもたびたび噴火の巻き添えで炎上する。文明16年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶が再建したのが、現在の霧島神宮である。但し、建物はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰いでいる。
また、神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
祭祀
年間約100もの祭儀が行われている。
- 朔日祭(ついたちさい) 毎月1日
- 月次祭(つきなみさい) 毎月19日
- 歳旦祭 1月1日
- 初日供祭(はつにっくさい) 1月2日
- 元始祭 1月3日
- 散籾祭(うちまきさい) 2月18日(旧暦1月1日)
- 御田植祭 3月3日(旧暦2月4日)
- 狭名田の長田御田植祭(さなだのおさだおたうえさい) 6月第一日曜
- 大祓式 6月30日、12月31日
- 南九州御神楽 8月最終土曜
- 例祭 9月19日
- 除夜祭 12月31日
文化財
重要文化財
- 本殿・幣殿・拝殿(合1棟)
- 登廊下
- 勅使殿
(以下は「附」(つけたり)指定)
- 門守神社 2棟
- 神饌所 1棟
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勅使殿(側面)
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拝殿
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登廊下
以上の社殿は鹿児島藩主島津吉貴の寄進で、正徳5年(1715年)に建立された。社殿はいずれも朱塗りの華麗なものである。特に本殿は内部も豪華に装飾され、柱、梁、長押などはすべて朱漆塗りとした上に要所を彩色文様や鍍金の飾り金具で装飾し、壁には極彩色の浮き彫りを施した羽目板を配するなど、贅をこらしている。神社建築で、外部だけでなく内部までこのように装飾をこらしたものは珍しく、「西の日光」と言う別名を持つ。
境内
もともと霧島山一帯が霧島神宮の境内であったが、明治4年(1871年)の廃藩置県の際に霧島山の頂上に沿って県境が引かれ、宮崎県内は神宮境内から外された。明治15年(1882年)にはさらに7810ヘクタールが削減され、昭和21年(1946年)の日本国憲法制定による宗教法人化で山林の大部分は日本国に譲渡された。その後、祭典行事に必要な789ヘクタールが神宮へ返還されている[2]。
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三の鳥居
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新神楽殿
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新神楽殿
脚注
参考文献
- 辰宮太一・中村葉子・中野晴生「元気の出る神社~第六回 霧島神宮」『Psiko』6月号、ポプラ社、2006年
関連項目
外部リンク
- 霧島神宮(神宮公式)