雨宮庸蔵
雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年1月1日 – 1999年12月2日)は、日本の編集者。
経歴[編集]
山梨県南巨摩郡鰍沢町(現富士川町)生まれ[1]。早稲田大学社会哲学科卒。在学中から、早稲田の先輩である嶋中雄作宛に毎月『中央公論』の精細な批評を書き送り、1928年(昭和3年)中央公論社に入社[1]、1929年(昭和4年)7月『中央公論』編集長に就任[1]。谷崎潤一郎を担当し、1932年(昭和7年)出版部長に転じる。1934年(昭和9年)より『谷崎潤一郎訳源氏物語』を担当し、山田孝雄に校閲を頼む傍ら、谷崎との相談で皇室に関する部分の削除を決めた[1]。
1937年『中央公論』編集長に復帰するも[1]、1938年(昭和13年)同誌3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」を掲載したことで石川とともに刑事告発され[2]、責任をとって退社[1]。1年後、新聞紙法違反で禁錮4ヶ月、執行猶予3年の刑を受ける[1]。戦前の言論弾圧事件として知られる事件である。
1940年(昭和15年)2月26日に民間アカデミーとして文部省認可が下りた国民学術協会の主事に就任。嶋中や桑木厳翼、清澤洌、長谷川如是閑らと共に、1944年(昭和19年)の活動中断まで役員を務めた。
戦後は馬場恒吾の引きで読売新聞社に入社、科学部長、論説委員を務めた。回想録『偲ぶ草 ジャーナリスト六十年』(中央公論社、1988)があり[1]、谷崎より雨宮宛の書簡は谷崎記念館より刊行されている。