跡部の踊り念仏
跡部の踊り念仏(あとべのおどりねんぶつ)は、長野県佐久市跡部[1]に伝わる郷土芸能。鎌倉時代に時宗を興した一遍の踊り念仏を起源とし、国の重要無形民俗文化財に指定されている[2]。
概要
一遍は、佐久の伴野荘小田切郷で踊り念仏を最初に行ったと言われ、今もその伝統が跡部地区に継承されている。本来は野外で踊られていたが、現在は浄土宗西方寺の本堂内に「道場」を設置し、毎年4月に行われる。男女の踊り手が、太鼓や鉦を打ったり、念仏を唱えたりする。かつては佐久地方の各地に踊り念仏があったが、西方寺に残るもの以外は消滅した[3]。
歴史
一遍が当地に流罪となった伯父の河野通末を訪ねて来訪した際に、紫色の雲を見て、念仏を唱えながら踊ったという。跡部の踊り念仏は、江戸時代には旧暦2月に三日三晩行われたが、大正時代からは西方寺の縁日に行うようになった。戦時中は中断されたが、昭和27年から再開され4月に行うようになった。しかし中断中に「来迎和讃」「四方将軍」「極楽念仏」などが消滅し、「西院の川原和讃」だけが残った。昭和61年には国の重要無形民俗文化財に指定された[4]。
内容
- 継承者 – 跡部区民在住の男女が行うが、特別な階層や家筋などはない。
- 道場 – 四十九院の塔婆を方2間に並べ、鳥居を置く。中央には太鼓2面を置き、その台に数珠をかける。上部には天蓋を張って鳳凰を乗せる。また幟や幕・花などを飾るが、これは土葬時の「棺台」の姿だと言う。道場の道具には江戸時代の物もあり、西方寺に収納される。
- 装束 – 踊り装束は縞や絣の着物や喪服などで、白足袋を履き、南無阿弥陀仏の白襟布を装着し、数珠をかけることもある。太鼓係はさらに白襷、白手甲、鉢巻を用いる。
- 人数 – 男女8人のうち2人が「賛しさ」という音頭取りで、ほかの6人が「踊り手」で胸に鉦を吊るす。
- 内容 – 道場前で正座、黙祷してから、合掌したまま西側から入場し、「南無阿弥陀仏」の称名や「ありがたや」など和讃を陽音で唄う。次に太鼓や鉦を打って20分程度「はね踊る」。
- 団子 – 踊り念仏後に、本尊に供えた三色団子が配られるが、これを食べると知恵がつくとも、風邪をひかないとも言われる[5]。
説話
- 地名 – 跡部の舞台区は、かつて踊り念仏の舞台があった土地だという。また金鋳場区は鉦を鋳た場所で、市庭区は一遍上人が最初に踊った場所だとされる。
- 紫雲 – 一遍上人は紫雲に感激して踊り始めたと言われるが、跡部区の南方約300mには時宗金台寺があり、山号を「紫雲山」と言う[6]。
脚注
参考文献
- 佐久市『佐久市志 民俗編 下』佐久市志刊行会、1990年2月20日
外部リンク
- 跡部の踊り念仏 – 佐久市
- 跡部の踊り念仏 信州の伝承文化 八十二文化財団