諏訪頼雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諏訪頼雄
時代 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永8年11月4日1631年12月26日
改名 竹千代(幼名)→頼雄
別名 源太右衛門、美作(通称
主君 諏訪頼水
信濃諏訪藩家老
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪頼忠、母:向山氏娘・理昌院
兄弟 頼水頼定頼雄頼広頼盛
正室:松平近正[1]
盛政、三安
テンプレートを表示

諏訪 頼雄(すわ よりかつ)は、江戸時代前期の信濃国諏訪藩家老。諏訪図書家初代。諏訪頼忠の四男。兄頼水に家老として仕え、領内の新田開発に功績があった。

略歴[編集]

諏訪頼忠の四男として生まれる。幼少時は父が臣従した徳川家康の人質として、家康居所の駿府で過ごす。文禄元年(1592年)、上野国総社領主となった兄・頼水に仕えた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、徳川秀忠付きとなった頼水の供をして、上野国高崎城を守備した。慶長6年(1601年)、頼水が功績により旧領信濃高島へ転封となるとそれに従う。頼水の意向に従って、領内原山の新田開発を指揮し、慶長15年(1610年)に完成させた。慶長16年(1611年)、江戸藩邸で火災が起こり、火元となった藩士高山左太夫の処罰を巡って、厳罰を主張する頼水に諫言して対立し、他の重臣たちと共に藩を退去する。翌慶長17年(1612年)、屋代秀正小笠原秀政の仲裁により頼水が折れて帰参する。慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)、大坂夏冬両陣では甲府城守備を命じられた頼水に従う。

齢松山福寿院(茅野市)を開基する(年代不明)。

元和7年(1621年)、病により隠居して家督を嫡男の盛政に譲る。寛永8年(1631年)11月4日死去。

代々高島城二の丸に居住し二の丸家と呼ばれ、8代頼保二の丸騒動で切腹を命じられる。図書家は家名断絶した。

人物[編集]

婚儀の際、松平近正火車退治に用いた藤嶋友重の刀(火車切)と火車の爪を贈られ、代々家宝として伝えた。

原山新田の開発に尽力したことから領民に崇敬され、鎮守社に兄頼水と共に祭られた。

脚注[編集]

  1. ^ 『豊後府内大給家譜』では松平一生の娘。即ち近正の孫娘。

参考文献[編集]

  • 『諏訪史年表』諏訪教育会
  • 『諏訪資料叢書第27巻』諏訪教育会 . NCID BN12468435 
  • 『諏訪の近世史』諏訪教育会