屋代秀正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
屋代 秀正(やしろ ひでまさ、永禄元年(1558年) - 元和9年閏8月3日(1623年9月27日))は戦国時代の武将である。江戸時代の大名。父は屋代正国の弟・室賀満正。名は勝永(かつなが)の名乗りで知られる。官名は左衛門尉。越中守。
永禄元年(1558年)、室賀満正の四男として生まれる。天正3年の長篠の戦いで正国の養嗣子で秀正の実兄の正長が戦死したため、秀正が正国の養嗣子となり天正4年(1576年)に家督を譲られて武田勝頼の家臣となる。天正10年(1582年)に武田氏が滅ぶと織田信長配下の森長可、次いで上杉景勝に仕え、海津城代の山浦景国の与力となった。しかし徳川家康が信濃に侵攻してくるとこれに内応し荒砥城に篭るが上杉氏に追われ所領を失う。以後は徳川氏の武将となり、慶長19年(1614年)からの大坂の役では徳川軍の旗奉行を務めた。
元和8年(1622年)、徳川秀忠の命令で秀忠の次男・徳川忠長付の家老に任じられ信濃小諸城主となるが翌年に死去した。享年66。法号:玄張。墓所は山梨県北杜市明野町上神取の屋代越中守勝永墓所。死後は子の屋代忠正が継ぎ、忠正の代に安房北条藩主となった。