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蠣崎波響

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蠣崎 波響
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦14年5月26日1764年6月25日
死没 文政9年6月22日1826年7月26日
改名 金介(幼名)→広年
別名 弥次郎、将監(通称)、世祜(字)、東岱、杏雨、京雨、波響(画号)、梅香舎、梅痩舎、柳民舎、滄岡軒(別号)
主君 松前道広章広
松前藩家老→梁川藩家老→松前藩家老
氏族 松前氏蠣崎氏
父母 父:松前資広、母:勘子(長倉貞義の娘)
養父:蠣崎広武
兄弟 松前道広池田頼完勝田武広広文
波響古田信真松前等広室、
蠣崎広命室、横井重賢
波鶩
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蠣崎 波響(かきざき はきょう)/蠣崎 広年(かきざき ひろとし)は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。

生涯

松前藩第12代藩主松前資広の五男に生まれる。13代藩主の道広は異母兄。母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。家老職を継いだ長男波鶩(広伴)も画家として知られる。

生まれた翌年に父が亡くなり、兄道広が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。叔父の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。

寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代フランスブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。

画の門弟に、継嗣の波鶩のほか・高橋波藍高橋波香熊坂適山熊坂蘭斎などがいる。

交友

画人では前記円山応挙を始め、岸駒四条派松村呉春皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山六如橘南谿伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山正賢松浦静山等と交流した。京都をたびたび訪れ、温和な性格で社交的な波響は歓待された。また梁川に転封となった頃は度々江戸を訪れ、酒井抱一や俳人松窓乙二などとも交流している。

森鴎外は『伊澤蘭軒』で波響を紹介している。地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知られたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からである。自筆資料は函館市立図書館に所蔵されている。

作品

関連文献

  • 高木重俊『蛎崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠村舎遺稿』 幻洋社、2002年
  • 高木重俊『蠣崎波響漢詩研究 詩業、画業に生きた松前の家老の研究』 幻洋社、2005年
  • 中村真一郎『蠣崎波響の生涯』(新潮社、1989年) 読売文学賞
  • 磯崎康彦『松前藩の画人と近世絵画史 蛎崎波響と熊坂適山・蘭斎兄弟』雄山閣 1986年
  • 高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』 ぺりかん社 2005年
  • 永田富智『蛎崎波響伝 松前絵師』 道新選書9・北海道新聞社 1988年
  • 五十嵐聡美『アイヌ絵巻探訪 歴史ドラマの謎を解く』
ミュージアム新書・北海道立近代美術館編、北海道新聞社 2003年
  • 『波響論集』 河野常吉ほか (波響論集刊行会編  1991年)
  • 『「蠣崎波響とその時代」展 図録』 北海道立函館美術館編 、1991年
  • 『松前波響 画集』 函館青年会議所編 「松前波響」編集委員会、1990年
  • 『蠣崎波響展 松前の明星 図録』 北海道立近代美術館編、1979年
  • 川延安直『ふくしま近世の画人たち』(歴春ふくしま文庫76)歴史春秋社 2001年