藩王国

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藩王国(はんおうこく:princely state, native state, indian state)は、イギリス植民地統治していた時代のインドインド帝国)において、イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた藩王(prince)の領国。かつては、「土侯国」とも訳された。

その数は約600あり、広さはニザーム藩王国(ハイデラバード藩王国)のように20万平方キロメートルを超えるものから、数平方キロメートル程度のものまで様々であった。

総面積は独立前のインド全体の約45%、人口は約24%を占めた。その起源は、ムガル帝国の州やその周囲にあった諸領邦のうち、イギリス東インド会社と同盟関係を結んだ諸国である。藩王の称号はさまざまで、ヒンドゥー教徒の場合はマハラジャ(大王)、ラージャ(王)など、ムスリム(イスラム教徒)ならナワーブ(知事)など、ハイデラバード藩王はムガル帝国時代に由来するニザームを称したが、イギリス政府からはいずれも「藩王」(prince:「諸侯」の意味)と呼ばれた。

藩王国は防衛・外交権を除いた自治権を認められてはいたが、しばしばイギリスが派遣した政治顧問(駐在官)の内政干渉を受けた。また、インド総督ジェームズ・ラムゼイ(第10代ダルフージー伯)による「失権の原理」(養子相続を認めない)の強行により、イギリス領に併合された藩王国も多かった。しかし、インド大反乱後は分割統治に利用できる傀儡勢力として一転して保護されるようになった。

そのため当時、インド議会の法律は適用されず藩王たちは自由に統治した。極少数の藩王国では近代国家並みに発展したところもあるが大半は支配階級の贅沢に国家予算の大部分が使われる時代遅れの体制だった。

1947年のインド・パキスタン分離独立の際、ほとんどの藩王国はどちらかの国に所属した。カシミール地方に存在したジャンムー・カシミール藩王国の帰属問題は、インド・パキスタンの間で紛争になった。

主な藩王国

現・インド

現・パキスタン

その他

関連作品

  • 『マハラジャ歓楽と陰謀の日々―インド裏面史』  ディワン・ジャルマニ・ダス (著) 佐野 光昭 (訳)  荒地出版社

関連項目

外部リンク