藤堂高猷

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藤堂 高猷
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化10年2月9日1813年3月11日
死没 明治28年(1895年2月9日
改名 寿千代(幼名)、高猷、観月楼
別名 和泉守(通称)
官位 正二位和泉守、侍従
主君 徳川家斉家慶家定家茂慶喜明治天皇
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高兌、母:愛川氏(永井直進娘)
兄弟 高猷中川久昭高美
娘(稲葉正守正室)
正室:藤堂高允
高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
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藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。

生涯

文化10年(1813年)2月9日生まれ。文政7年(1824年)12月に父が死去し、翌年2月29日 (旧暦)に跡を継ぐ。天保13年(1842年)、幕命により伊勢神宮警備を務め、砲台を築いている。文久3年(1863年)には天誅組の乱を鎮圧している。

幕末期、高猷は佐幕派公武合体を推進していたが、あまり幕政には関わらなかった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、当初は幕府軍に与していたが、後に新政府軍に寝返って幕府軍敗走の一因を作った。このため、旧幕府側からも新政府側からも「裏切り者の犬」として罵られた。

明治4年(1871年6月28日、家督を長男の高潔に譲って隠居する。明治28年(1895年)2月9日、83歳という長寿で死去した。新撰組の八番隊組長・藤堂平助は高猷の落胤というが、真相は定かではない。