藤原通季
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 寛治4年(1090年) |
死没 | 大治3年6月17日(1128年7月16日) |
別名 | 大宮 |
官位 | 正三位権中納言左衛門督 |
主君 | 白河上皇 → 堀河天皇 → 鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:権大納言藤原公実、母:従二位藤原光子(藤原通方の娘) |
兄弟 | 藤原実隆、三条実行、通季、藤原実兼、藤原経実室となった女子、覚源(阿闍梨)、仁実、徳大寺実能、藤原実子 、藤原公子、源有仁室となった女子、待賢門院璋子、藤原季成、済実(大僧正法務)、藤原家政室となった女子 |
子 | 公通、公重 |
特記 事項 | 西園寺家の祖 |
藤原 通季(ふじわら の みちすえ)は平安時代後期の公卿。正三位権中納言。大宮と号す。権大納言藤原公実の子。西園寺家の祖で、西園寺通季と表記する場合もある。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
承徳2年(1098年)1月6日、叙爵。康和元年(1099年)1月23日、越中権守に任ぜられる。康和2年(1100年)1月28日、右兵衛佐に任ぜられる。7月24日には昇殿を許される。康和3年(1101年)1月5日、従五位上に昇叙。康和4年(1102年)1月5日、正五位下に昇叙。康和5年(1103年)1月28日、左少将に任ぜられ美作守を兼ねる。長治元年(1104年)4月2日、従四位下に昇叙。嘉承元年(1106年)1月5日、従四位上に昇叙。11月14日には父公実の喪に服す。嘉承2年(1107年)1月24日、復任する。7月19日には新帝践祚(鳥羽天皇)に当たり昇殿を許される。12月24日、正四位下に昇叙。天永2年(1111年)1月23日、左中将に転任し蔵人頭に補せられるが、中将と美作守は止められる [1] 。天永3年(1112年)1月26日、備前権守を兼ねる。永久3年(1115年)4月28日、参議に任ぜられる[2] 。8月13日、左中将を兼ねる。永久4年(1116年)1月30日、近江権守を兼ねる。永久5年(1117年)11月16日、従三位に叙される。元永元年(1118年)1月26日、中宮権大夫を兼ねる。保安3年(1122年)1月23日、権中納言に任ぜられる[3] 。12月21日には左衛門督を兼ねる[4]。天治元年(1124年)11月24日、中宮が女院(待賢門院)となったため中宮権大夫を止める。大治3年(1128年)1月5日、正三位に昇叙。同年6月17日、薨去。
閑院流の嫡流問題
蔵人頭、参議への補任はともに異母兄の実行と同時であったが、父公実があらかじめ定めていた嫡庶の順により通季が上首とされた。代々、閑院流の正嫡に伝えられる牛車を公実から相続したという[5]。実際に公実が通季を嫡子と決めていたか判断する資料が残っていないため判断が難しいが、通季が早世していなければ実能並みの昇進をした可能性は高いと推測できる。
通季の死後、閑院流の中では暫く実行、実能の子孫が権勢を強めたが、通季の曾孫に当たる公経が鎌倉時代初期に太政大臣に昇り、西園寺家を創始する。
系譜
脚注
- ^ 同日に異母兄の右中弁実行も蔵人頭に補せられている。
- ^ 異母兄の実行も参議に任ぜられる。
- ^ この時、宰相中将の第二位であったが源師頼や藤原俊忠らを超越した。また12月17日には異母兄の実行と同母弟の実能が同時に権中納言に任ぜられている。
- ^ 同日、実行は右衛門督兼検非違使別当に、実能は右兵衛督を兼ねている。
- ^ 閑院流の嫡庶に関して、室町時代に『尊卑分脈』を入手した三条公敦は、西園寺家の項に「閑院流の嫡流」という記述を見つけて憤慨し西園寺家は閑院流の嫡流ではない、とする注記を記している。また同時に、公敦の実弟信量が大炊御門家を継いで兄弟で左右近衛大将に就任したことを誇らしげに記している。
参考文献
- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 永久3年(1115年)に通季が参議となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「西園寺通季」および「藤原公実」、「三条実行」、「徳大寺実能」、「三条公敦」の項。
- 『大鏡』、松村博司校注、岩波文庫
- 角田文衛、『待賢門院璋子の生涯 ー 椒庭秘抄』、朝日選書281、朝日新聞社
- 元木泰雄、『藤原忠実』、人物叢書<新装版>、吉川弘文館