藤原経定
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康和2年(1100年)?[1] |
死没 | 久寿3年1月28日(1156年2月20日) |
官位 | 正三位・権中納言 |
主君 | 白河上皇 → 堀河天皇 → 鳥羽天皇 → 崇徳天皇 → 近衛天皇 |
氏族 | 藤原北家大炊御門家 |
父母 | 父:藤原経実、母:藤原通俊の娘 |
兄弟 | 経定、経宗、懿子 |
妻 | 藤原通季の娘、源仲正の娘 |
子 | 頼定、定雅、成定 |
藤原経定(ふじわら の つねさだ)は平安時代後期の公卿。正三位権中納言。父は大納言藤原経実。
経歴
天仁2年(1109年)1月6日、叙爵。永久4年(1116年)1月30日、加賀権介に任ぜられる。保安3年(1122年)8月27日、昇殿を許される。同年9月8日、右兵衛佐に任ぜられ、同年12月22日には右少将に任ぜられる。保安4年(1123年)1月22日、加賀権介を兼ね、同月28日には新帝の昇殿を許される。同年11月6日、備中介に改めて任ぜられ、同月17日、従五位上に昇叙。大治元年(1126年)1月5日、正五位下に昇叙。大治3年(1128年)1月5日、従四位下に昇叙。同月24日、改めて右少将に任ぜられ、4月7日には左少将に遷る。大治4年(1129年)1月24日、肥後介を兼ねる。長承2年(1133年)1月5日、従四位上に昇叙。長承3年(1134年)2月22日、備中権介を兼ね、同年3月7日には右中将に任ぜられ中宮権亮を兼ねる。保延4年(1138年)11月17日、蔵人頭に任ぜられる。保延5年(1139年)12月、妹の懿子が従一位左大臣源有仁の養子として雅仁親王の添臥となった。保延6年(1140年)3月27日、美作権守を兼ねる。保延7年(1141年)12月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。永治2年(1142年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。康治2年(1143年)、懿子と雅仁親王との間に守仁親王が誕生した。久安3年(1147年)1月5日、従三位に叙される。久安5年(1149年)8月28日、伊予権守を兼ねる。同年22日、正三位に昇叙。久安6年(1150年)10月20日、権中納言に任ぜられる。久寿3年(1156年)1月28日[2]、薨去[3]。
家嫡となれなかった経定
藤原経実の長男であり懿子の兄であったが、生母の実家の差から昇進が遅く、家は藤原公実の娘である藤原公子を母とする弟の経宗が継いだ。また、保元の乱の直前に薨去したことになる。