藤原氏宗

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藤原 氏宗(ふじわら の うじむね、弘仁元年(810年)- 貞観14年2月11日872年3月23日))は、平安時代前期の公卿、宮廷政治家。藤原北家中納言藤原葛野麻呂の七男。官位は正三位右大臣正二位

経歴

天長9年(832年上総大掾から、中務大丞六位蔵人式部大丞を経て、承和5年(838年従五位下式部少輔に叙任される。のち仁明朝では左少将左右衛門権佐と武官を務める一方で、右少弁右中弁弁官を兼ね、承和9年(842年)に陸奥として任国に赴任して従五位上に昇叙され、承和15年(848年)には春宮亮に任ぜられ皇太子・道康親王にも仕えた。この間、承和15年(848年正五位下嘉祥3年(850年従四位下と順調に昇進した。なお、承和9年(842年)4月には来日した渤海使に対して食事の提供を行っている。

嘉祥3年(850年)4月の道康親王の即位文徳天皇)に伴い蔵人頭に任ぜられて、右中将・右大弁と文武の要職を兼ね、翌仁寿元年12月(852年1月)参議として公卿に列す。文徳朝では議政官として左右中将・検非違使別当左衛門督・左右大弁と引き続き文武の諸官を兼ねた。

天安2年(858年清和天皇の即位後に正四位下へ叙せられる。貞観元年(859年従三位、また同年藤原基経の異母妹で後宮に出仕していた藤原淑子と結婚する。清和朝では、貞観3年(861年)先輩の参議で後に左大臣にまで昇る嵯峨源氏源融を越えて中納言となると、同じく嵯峨源氏の大納言源定源弘薨去もあり、貞観6年(864年権大納言、貞観9年(867年正三位・大納言と目覚ましい昇進を遂げ、貞観12年(870年右大臣に至った。なお、この急速な昇進の背景には後宮の実力者であった妻・淑子の影響もあったとされる。清和天皇の命により、貞観11年(869年)に『貞観格』を、貞観13年(871年)には『貞観式』を選上。また貞観永宝の鋳造にも関わり、貞観の治と呼ばれる同天皇の治世に大いに貢献した。

右大臣に在任中の貞観14年(872年)2月11日薨御。死後正二位を贈られている。

官歴

※ 注記のないものは六国史に基づく。

系譜

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『公卿補任』
  2. ^ 『公卿補任』では左近衛少将
  3. ^ 『公卿補任』では11月7日
  4. ^ 『公卿補任』では12月7日