藤原実明
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 仁平3年(1153年) |
死没 | 貞応2年8月16日(1223年9月12日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:藤原公通、母:藤原通基の娘 |
兄弟 | 実宗、実明、公性、藤原清通室 |
妻 | 玄修の娘 |
子 | 公雅、公綱、明暹、明辨、公遍、公縁、公真 |
藤原 実明(ふじわら の さねあきら、旧字体:藤󠄁原 實明󠄁)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公通の次男。官位は従二位・参議。
経歴
[編集]応保3年(1163年)従五位下に叙爵。永万2年(1166年)に侍従に任ぜられ、仁安3年(1168年)従五位上に叙せられた。嘉応2年(1170年)土佐介を兼任。
承安3年(1173年)正五位下に叙せられる。治承3年(1179年)右近衛少将に任ぜられ、治承4年(1180年)周防介を兼ねた。養和元年11月(1182年1月)従四位下に進み、寿永元年(1182年)には従四位上に叙せられる。寿永2年(1183年)昇殿を聴される。また、後白河法皇より閏10月6日、紀伊国日高郡の荘園・高家荘の預職に補されている[1]。寿永3年(1184年)正四位下・美濃守に叙任された。
元暦2年(1185年)正月、藤原季範の木工頭任官の替わりに備前守に任じ、6月には源雅賢の解官により播磨守に任ぜられた。文治2年12月(1187年1月)右近衛中将に転じて、建久2年(1191年)蔵人頭に補任。建久4年12月(1194年1月)参議に任ぜられて公卿に列した。建久5年(1194年)備後権守を兼任。建久6年(1195年)には兄・実宗の譲りで従三位に叙せられた。
建久10年(1199年)正三位・伊予権守に叙任される。正治2年(1200年)に参議を辞退して民部卿に遷任。元久2年(1205年)に民部卿を辞任して従二位に叙せられた。承元3年(1209年)出家して、貞応2年(1223年)8月16日、71歳で薨去。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に随う。
- 応保3年(1163年)正月5日:従五位下(太皇太后仁平二年御給)。
- 永万2年(1166年)8月21日:侍従。
- 仁安3年(1168年)正月6日:従五位上(上西門院当年御給)。
- 嘉応2年(1170年)正月18日:土佐介を兼ぬ。
- 承安3年(1173年)
- 正月6日:正五位下(建春門院当年御給)。
- 6月9日:復任。
- 治承3年(1179年)10月10日:右近衛少将。
- 治承4年(1180年)正月28日:周防介を兼ぬ。
- 養和元年11月28日(1182年1月4日):従四位下。少將如元。
- 寿永元年(1182年)11月28日:従四位上(大嘗會叙位。院臨時御給)。
- 寿永2年(1183年)8月20日:昇殿。
- 寿永3年(1184年)
- 正月6日:正四位下(院当年御給)。
- 9月18日:美濃守を兼ぬ(院分。源義廣解官替)。少將如元。
- 元暦2年(1185年)
- 正月20日:備前守(院分。季範任木工頭替)。
- 6月29日:播磨守を兼ぬ(院分。雅賢解官替)。
- 文治2年12月15日(1187年1月26日):右近衛中将に転ず。守如元。
- 建久2年(1191年)10月26日:蔵人頭。
- 建久4年12月9日(1194年1月3日):参議。
- 建久5年(1194年)正月30日:備後権守を兼ぬ。
- 建久6年(1195年)4月7日:従三位(東大寺供養。実宗譲)。
- 建久9年12月28日(1199年1月26日):復任(母)。
- 建久10年(1199年)
- 正月7日:正三位(臨時加叙)。
- 3月23日:伊予権守を兼ぬ。
- 正治2年(1200年)4月1日:民部卿に遷り、参議を辞す。
- 元久2年(1205年)正月5日:民部卿を辞し、従二位に叙す。
- 承元3年(1209年)7月7日:出家。
- 貞応2年(1223年)8月16日:薨去。