藤井光五郎
藤井 光五郎(ふじい てるごろう、1867年7月23日(慶応3年 6月22日) - 1947年7月17日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍機関少将(失官、位記剥奪)。
経歴
福本藩(交代寄合 池田松平家、6千石)公用人・藤井義柄の三男として生まれる。1883年9月、旧海軍機関学校(4期)に入学、1887年7月に卒業、翌年9月、海軍少機関士に任官。フランス出張(「厳島」回航委員)、呉水雷隊攻撃部機関長心得、横須賀鎮守府造船部造機科主幹、「扶桑」乗組、機関工練習所教官兼部長などを歴任し、1896年1月からイギリスへ留学しグラスゴー大学で学んだ。
1900年に帰国し、海軍大学校教官、呉造船廠造機科主幹、横須賀造船廠造機科主幹、イギリス出張(造船監督官)などを経て、1906年1月、海軍機関大佐となった。横須賀工廠造機部長、イギリス出張(造船監督官)などを歴任した。1910年12月、海軍機関少将に進級し、海軍艦政本部第4部長に就任した。
1914年1月、シーメンス事件が発覚し、同年2月17日に待命となり[1]、海軍軍法会議により懲役4年6か月、位記剥奪の判決が出され、同年9月14日に失官[2]となった。
栄典
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[3]