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蕭銑

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梁皇帝 蕭銑
初皇帝
王朝
在位期間 618年 - 621年
姓・諱 蕭銑
諡号
廟号
生年 583年
没年 621年
蕭璿
年号 鳳鳴 : 617年 - 621年

蕭銑(しょう せん、583年 - 621年)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。曲阿郡武進県(現在の江蘇省武進県の西北)の人。

経歴

蕭銑は蕭璿の子として生まれた。後梁宣帝(蕭詧)の曾孫にあたる。祖父の蕭巖は明帝(蕭巋)の弟であったが、開皇初年に隋に叛いてに降り、陳が滅びると文帝(楊堅)は蕭巖を処刑した。蕭銑は若い頃は貧困の中で事務雇いをして母に孝事した。煬帝は明帝の娘を皇后としていたことから、外戚として羅川県令に抜擢された。

617年、岳州校尉の董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・万瓚・徐徳基・郭華、沔陽の人の張繡らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で武帝の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。蕭銑は梁公を称し、沈柳生を斬ると梁王を自称して、鳳鳴元号を立てた。

618年皇帝を僭称し、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万瓚を魯王に、張繡を斉王に、楊道生を宋王に封じた。隋の張鎮州と王仁寿の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと嶺南の甯長真らを降し、林士弘を豫章に破って、西は三峡、南は交趾、北は漢水に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。江陵に都を置き、園廟を復した。岑文本を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生に峡州を攻めさせて、唐の峡州刺史の許紹に敗れた。

620年、唐の趙郡王李孝恭の攻撃を受け、通州・開州を奪われ、東平王闍提を斬られた。梁の諸将は兵権を専断して、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり、乱を謀って、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を長沙から江陵に召還しようとしたが、董景珍は恐れて李孝恭に降った。蕭銑は張繡を派遣して董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繡を尚書令としたが、張繡は功をたのんで驕慢となり、蕭銑はまた張繡を処刑した。蕭銑は外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く、成功者をねたんだので、大臣や将軍たちの多くは叛き去り、蕭銑の政権は弱体化した。

621年、唐の李孝恭と李靖の兵を率いて長江を下り、廬江王李瑗襄陽道を、黔州刺史の田世康が辰州道を出て、蕭銑を攻めた。また周法明が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を派遣して李孝恭をはばませたが、清江口に敗れ、戦艦多数を鹵獲された。宜昌・當陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、ついに唐の軍門に下った。「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。

長安に護送され、李淵は彼を責めたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。田横が南面して、に仕えるようなことがあろうか」と答えた。李淵は蕭銑が屈服しないのを怒って長安の市で斬らせた。

伝記資料

  • 旧唐書』巻五十六 列伝第六「蕭銑伝」
  • 新唐書』巻八十七 列伝第十二「蕭銑伝」