萱野長修
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 明治2年5月18日(1869年6月27日) |
別名 | 本名:長修(ながはる) |
戒名 | 報国院殿公道了忠居士 |
墓所 |
東京都港区白金の興禅寺 福島県会津若松市 天寧寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平容保 |
藩 | 会津藩 家老 |
氏族 | 萱野氏 |
父母 | 父:萱野小太郎長裕、母:ツナ(井上家) |
兄弟 |
姉3人、兄1人(夭折)、長修、弟2人以上、 鈴木多聞、三淵隆衡 |
子 |
長準(長男)、郡長正、虎彦(3男・郡寛四郎)、 ユウ(長女)、イシ(2女)、五郎(4男) |
萱野 権兵衛(かやの ごんのひょうえ)は、江戸時代末期(幕末)の会津藩家老。戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として処刑された。
生涯
萱野家は会津藩の侍大将を務める名家であり、父の長裕は家老に取り立てられた。家禄1500石。権兵衛は文久3年(1863年)に家督を継いで藩主・松平容保に仕えた。慶応元年(1865年)に家老に任じられて以降は容保の側近としてその補佐役を務めた。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争の端緒である鳥羽・伏見の戦いの時には京都におり(柴太一郎[1]の証言)、その後は日光方面へも出撃。会津戦争時には大寺にて迎撃体制にあるも、新政府軍は南方の母成方面を進路としたために戦闘にはならず、若松城が包囲されてからは、高久に布陣して城内との連絡や補給に従事した。開城後は東京へ送られ他の会津藩士と共にお預けの身となった。
戦後、新政府は容保に罪を問おうとしたが、権兵衛は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君を命がけでかばった。このため容保は幽閉で済むことになったが、権兵衛は東京の久留米藩邸にお預けとなり新政府による沙汰を待つ事になった。国立公文書館所蔵の書類には刎首とあるが、武士の体面を重んじて座敷にての切腹となり、明治2年(1869年)に飯野藩保科家下屋敷にて自刃した。権兵衛は一刀流溝口派の相伝者で、奥義が絶えるのを惜しみ、切腹を前に火箸を使って井深宅右衛門に伝授した話が知られている。墓は東京白金の興禅寺と会津若松市天寧寺にあり、現在も墓前祭が行われている。享年は40説と42説があり三男の郡寛四郎が作成した系図には42歳と記されている。
なお、本名は「ながはる」が正しい読み方で、役職名は「ごんのひょうえ」と三男の郡寛四郎の証言がある。
萱野家
萱野家は会津松平家に仕える前は、先の領主であった加藤明成の重臣であった。加藤家が改易となり、保科正之が入部するに際し、権兵衛の9代前の萱野長則は城受渡しの責任者の1人であった。明成に従って石見まで赴いたが、明成から保科家に仕えるよう勧められ会津松平家家臣となった。初代・最高裁判所長官の三淵忠彦は権兵衛の甥に当たるが、その選任に際し、諮問委員長であったのは容保の子である松平恒雄である。
脚注
参考文献
- 相田泰三『保科正之公傳』保科正之公三百年祭奉賛会