舎人
舎人(とねり/しゃじん)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。
概要
ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つであり、「トネ」(刀禰、刀祢、利根、刀根、登根、戸根などとも)に起源を同じくする。大王の身の回りの世話を受け持つ舎人は、古くは川や船など水運に関わる従事を指したと考えられ、このことは「トネ」に由来する地名が河川や港浦を中心に分布することから示唆される。これに「人」を表す「リ」[1]が付き「トネリ」として一般化し、靱負(ゆげい)、采女(うねめ)、膳夫(かしわで)と並んで、大王の側近を意味した。なおこの語の用法は『古事記』にしか見られない。
やがて氏姓が始まると、東国を中心に国造などにこのトネを冠した「等禰直」「舎人直」などの人名としても見え始め、さらにはこうした大王の側近や有力な世襲豪族には御名入部(みないりべ)である「舎人部」(舎人に近侍する下級役人)を持ちはじめ、舎人直 ― 舎人 ― 舎人部 という階層関係がみられた[2]。これらの舎人は天皇に貢進もされ、新たに舎人として近侍した。[要出典]
天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まるが、新たに八色の姓が置かれても天皇に近い有力貴族を表す「舎人」の語は残り、律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他にも兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。この他に公的な舎人を支給されない皇族や貴族の私的な舎人として帳内・資人が設置され、その家政機関に従事した。
舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。
こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で意宇郡に舎人郷(現;島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。だが、平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。
なお、本居宣長は『古事記伝』の中で、「とのはべり(殿侍)」という語が変化して「とねり(舎人)」という語が発生したと推測しているが、殿は平安期以降に一般化した貴人への敬称で、律令以前から存在していた舎人には当てはまらない。[独自研究?]
注釈
参考文献
- 井上薫「舎人」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4)
- 井上薫「舎人」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5)
- 富所史織「舎人」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)
- 森公章「舎人」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-09-523003-0)