縁起
縁起(えんぎ)
- 仏教の縁起。下記で詳述。
- 一般には、良いこと、悪いことの起こるきざし・前兆の意味で用いられ、「縁起を担ぐ」、「縁起が良い」、「縁起が悪い」などと言う。このような意味から、「縁起直し」、「縁起物」などという風俗や習慣がうかがわれる。
- 寺社縁起。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革(由緒)や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指す。
仏教における縁起(えんぎ、サンスクリット:pratiitya-samutpaada、パーリ語:paTicca-samuppaada)は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。
ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。 なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「因」と考え、それ以外の原因は「縁」と考えるのが一般的である。
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。これは「彼」の存在が「此」によって規定されていることを示す。
縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、「此があれば彼がある」ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。このように後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、補完する、必要不可欠なものである。
まず縁起は、釈迦によって、人間の生存についての、十二支縁起として説かれた[1]。
後代に発展した教義としては、業感縁起・頼耶縁起・如来蔵縁起・法界縁起・六大縁起などが、それぞれの教学の中心として説かれる。
機縁説起
縁起は、「機縁説起」として、衆生の機縁に応じて説を起こす、と解釈されることもある。
たとえば華厳教学で「縁起因分」という。これは、さとりは、言語や思惟をこえて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起すことをさす。
脚注
- ^ 縁起支については九支・六支・十支などと数は不定である。