粟屋元通

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粟屋元通
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長12年6月19日1607年8月11日
別名 通称:弥三郎
官位 縫殿允備前守
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 源姓粟屋氏
父母 父:粟屋元宗
兄弟 元通粟屋(豊島)就信
江田元周
元定堅田元慶元宣
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粟屋 元通(あわや もとみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。

生涯[編集]

粟屋元秀の子である粟屋元宗の子として誕生。弟に粟屋(豊島)就信がいる。

天文6年(1537年)に元服し、毛利元就から偏諱を受けて粟屋元通と名乗る。天文17年(1548年)の備後国神辺城攻めに出陣したのを初め、天文24年(1555年)からの防長経略における下松への侵攻や須々万沼城の戦い、永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけての伊予攻めなどで活躍した。それらの功績により、周防国岩国の代官も務め、元亀3年(1572年)の毛利氏掟内でも年寄衆として確認できる。宇喜多氏との戦いにも参加し、桂就宣らと共に備中国飯山城の守将となった。城下の宝妙寺[1]阿弥陀堂に天正9年巳5月吉日付の当時の落書きが残されている。

毛利元就の勧請によって創建された鳴石山八幡神社を天文2年(1533年)に再建。その際に寄進したと思われる獅子頭が現存している。

天正13年(1585年)に家督を嫡子・元定に譲り、慶長12年(1607年)に死去。

年表[編集]

和暦 西暦 日付 内容 出典
不明 粟屋元宗の子として生まれる。
天文6年 1537年 11月15日 毛利元就の加冠を受けて元服。「元」の字を与えられて、粟屋元通と名乗る。
天文17年 1548年 6月23日 備後国神辺城攻めにおける武功により、毛利隆元から感状を与えられる。
なお、元通はこの時の戦で負傷している。
萩藩閥閲録巻74
天文19年 1550年 安芸国下吉田において6段、下野ヶ原において1町5反を与えられる。
天文23年 1554年 10月28日 10月25日の安芸国伴田での戦における武功により、毛利元就・隆元連名の感状を与えられる。 萩藩閥閲録巻74
天文24年 1555年 この年より始まる防長経略に従軍。
12月29日 毛利隆元より縫殿允の官途を与えられる。 萩藩閥閲録巻74
弘治2年 1556年 4月28日 3月13日の周防国中須、3月15日の周防国玖珂、3月18日の周防国鷲頭、
3月19日の周防国下松における武功により、毛利元就と隆元のそれぞれに感状を与えられる。
萩藩閥閲録巻74
永禄3年 1560年 安芸国山里津田において、30貫を宛行われる。
永禄6年 1563年 8月2日 父・元宗が78歳で死去。
永禄10年 1567年 この年から翌永禄11年にかけての伊予攻めに従軍。
元亀3年 1572年 毛利氏掟に年寄衆として加判。
天正3年 1575年 2月9日 毛利輝元より備後の官途を与えられる。 萩藩閥閲録巻74
天正13年 1585年 家督を嫡子・元定に譲り、隠居。
慶長12年 1607年 6月19日 死去。

脚注[編集]

  1. ^ 当時は法明寺。

出典[編集]

  • 『萩藩閥閲録』
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年