第105戦車師団 (朝鮮人民軍)
近衛ソウル柳京洙第105戦車師団 | |||||
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근위 서울류경수제105땅크사단 | |||||
活動期間 | 1949年5月16日 | ||||
国籍 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ||||
軍種 | 朝鮮人民軍陸軍 | ||||
兵科 | 機甲 | ||||
兵力 | 師団 | ||||
上級部隊 | 平壌防御司令部 | ||||
主な戦歴 | 朝鮮戦争 | ||||
識別 | |||||
NATO兵科記号 |
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第105戦車師団(제105전차사단)[† 1]は朝鮮人民軍の師団の1つ。現在の正式な名称は近衛ソウル柳京洙第105戦車師団(근위 서울류경수제105땅크사단)[1]。
歴史
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ソ連は北朝鮮に500両の戦車を供与して2個戦車師団を創設する計画であったが、韓国陸軍の対戦車装備の実態と韓国の地形と道路網、とくに橋梁の貧弱さに驚き、給与量を242両に削減し、1個旅団の創設に切り替えた。
1947年5月頃、平壌寺洞に駐屯していたソ連軍戦車師団内でT-34戦車隊基幹要員の教育を始め、1948年初めに撤退するソ連軍戦車師団から1個旅団分のT-34戦車150両を残置させ、ソ連軍中佐の崔表徳を人民軍少将に任命して第115戦車連隊長に補した。
ソ連生まれの2世や第1軍官学校卒業生及び戦車講習所を修了した兵士を編入して1949年5月に第105戦車旅団を創設した。第105戦車旅団は第107、109、203の3個戦車連隊と第206機械化連隊、自走砲大隊、第303機動偵察隊、第208教導連隊及び、通信、工兵、運輸、整備、軍医の各大隊からなり、総員8800人、装備はT-34戦車150両、SU-76自走砲90両が主体であった。旅団長は柳京洙、文化副旅団長は安東洙、技術副旅団長は朴イルム、参謀長は千義玩が就任した[2]。
1949年10月頃になると以下のように分散配備して各種訓練を行っていた。
国境会戦では第1、3、4、6師団にそれぞれ第203、109、107戦車連隊、第206機械化連隊を支援のため配備した。ソウル陥落後はソウルの称号が与えられ、師団に昇格した。
脚注
- ^ 戦車師団(전차사단)は機甲師団(기갑사단)または坦克師団(땅크사단)と表記される場合もある。
出典
- ^ “조국해방전쟁에서 위훈을 세운 근위부대들”. ネナラ (2015年7月27日). 2018年3月23日閲覧。
- ^ 김선호 2020, p. 529.
参考文献
- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 中巻 50年春からソウルの陥落まで』原書房、1979年。
- 赤木完爾『朝鮮戦争 休戦50周年の検証・半島の内と外から』慶應義塾大学出版会、2003年。ISBN 4-7664-1038-6。
- 김선호 (2020). 조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원. 한양대학교 출판부. ISBN 9788972186809