穴沢俊光

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穴沢 俊光(あなざわ としみつ、生年不明 - 天正12年(1584年)/ 天正13年(1585年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将蘆名氏の家臣。通称は新右衛門。別名に信堅。父は穴沢俊恒(加賀守信徳)、嫡男に俊次(広次)。

蘆名氏に仕えて、陸奥国耶麻郡桧原(現・福島県耶麻郡北塩原村桧原、通称裏磐梯一帯)を支配し、岩山城を居城とした。桧原は蘆名領の北端部にあたり、吾妻連峰を挟んで北側は伊達氏の根拠地米沢であった。そのため、常に伊達氏から狙われる危険性が伴っていた。

永禄8年(1565年)、俊光は伊達輝宗の家臣・石川但馬守の侵攻を戸山城で父俊恒と共に撃退、翌永禄9年(1566年)には岩山城で伊達勢の奇襲攻撃を退けた。しかし、天正12年(1584年)11月、俊光と対立していた一族の穴沢四郎兵衛が伊達政宗に内応し、政宗は四郎兵衛の手引きで1500の兵を派遣して桧原を急襲させた。伊達勢は大塩(現・北塩原村大塩)方面の道も塞いだため、退路を断たれた穴沢勢は混乱に陥り多くの兵を討たれ、岩山城に立て籠もり奮戦した俊光も岩山落城の際、一族と共に自害した。

政宗はその後、岩山城の南・小谷山に城を築き(桧原城)、後藤信康を在番に配した。岩山城落城は天正13年(1585年)5月に政宗自ら攻めて落城させたという説もある。

なお、俊光の嫡子俊次はその場に居合わせなかったため難を免れ、その後柏木城に入り、蘆名氏滅亡後は蒲生氏郷に仕え、その子孫は会津松平家の家臣となった。

関連項目

  • 桧原湖(当時の桧原村は現在は湖の底である)