禹範坤

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禹 範坤
우범곤
個人情報
生誕 (1955-02-24) 1955年2月24日
大韓民国の旗 韓国慶尚南道釜山市東区草梁洞245-8
死没 1982年4月27日(1982-04-27)(27歳)
大韓民国の旗 韓国慶尚南道宜寧郡宮柳面坪村里406
死因 人質と共に爆死
殺人
犠牲者数 57人 (諸説有)
犯行期間 1982年4月26日27日
大韓民国の旗 韓国
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禹 範坤(ウ・ボムゴン、우범곤, 1955年2月24日 - 1982年4月27日)は、1982年4月26日から翌日にかけて、韓国南部の慶尚南道宜寧郡宮柳面で57人(56人、59人、62人などの説もある)を殺害、35人に重軽傷を負わせた事件を起こした警察官である。

背景

禹範坤は、1955年2月24日に韓国慶尚南道釜山市東区草梁洞(現:釜山市南区望美洞の245-8)で警察官だった(1949~1973)父親と専業主婦で韓国現慶尚南道釜山市北区生まれの母親金太南(52)の間に三男として誕生した。兄弟は4人。(長男:禹月坤(32)、次男:禹律坤(28)、四歳年下の弟禹範浩(22))。幼少期の頃は何も悩みなく過ごしたという。

1963年3月11日、8歳の時に釜山東区草梁洞小学校に入学し、1969年2月27日、14歳の時に同小学校を卒業。

同年3月釜山佐川洞釜山中学校に入学し、1972年2月26日、17歳の時に同中学校を卒業。

同年3月12日錦城金星高校に入学。

1973年1月20日、父が大腸癌と診断され入院。6月29日には父の病院費用と範坤の進学費用を捻出する為自宅を売却し、父親の病院費に充てたが、7月18日には余命半年と宣告をされた。1974年1月30日午前2時00分頃、父は大腸癌で死去(1928年12月24日~1974年1月30日。享年45歳)

父の死後、1974年3月28日範坤はガラスを割り手首を切る自傷を行ったりしたが、大事には至らず1975年2月20日に高校を卒業した。

同年3月25日慶南釜山北区樹里園大学に入学するも、翌大学2年生だった1976年2月15日に中退し、2月19日に韓国海兵隊に志願入隊した。

2年後の1978年8月30日に海兵隊兵長を除隊され、1980年12月20日、警察官採用試験に合格し3日後に釜山南の交番に配属される。 その後1981年4月12日から12月30日まではソウル市青瓦台の101警備隊の警察官として勤務していたが、暴力沙汰を起こした事で12月26日、懲戒を受け、慶尚南道宜寧に左遷される事が決まり、1982年3月3日には鴨谷里に定住した。

その後、2歳年下の女性と付き合い始め、3月初めから同棲を開始。また、同棲を機に犬とひよこを18匹飼った事もあった。

事件

1982年4月26日16時、禹は酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が禹の胸に止まったハエをはらおうと叩いた事がきっかけで口論となり激高。自宅を出てそのまま宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)の武器庫に入り込み、そこで多量のウイスキーを飲んで泥酔状態となった。19時30分、自宅へ戻って家具を破壊したり、女性を殴打して負傷させた(女性はこれ以上の危害を加えられておらず命に別状はなかった)。そして21時25分、武器庫に戻りM2カービン銃2丁と実弾144~180発(172発乱射)、手榴弾8発を持ち出した。

禹は警察署を出ると近くの路上を歩いていた26歳の男性を射殺し、そのまま市場で手榴弾を投げ通行人3人を爆殺した。21時45分、郵便局に押し入って電話交換手と郵便配達員の合計3人を射殺。22時、内妻が住むアプコクリの集落へ行き2人を殺害した後、内妻の家で一家5人を射殺した。続いて別の集落ウンギェリに向かいカービン銃を乱射し合計7人の住民を射殺した。この時点で19人を殺害しているが、付近の集落で電気が点いている家を見付けては手当たり次第に家人に対してカービン銃を乱射し更に18人を射殺。また、閉店前の市場など人の集まる場所に手榴弾を投げ込み、爆発で驚いて表へ飛び出してきた人達に対してカービン銃を乱射して次々と射殺した。22時半頃、偶然近くにいた18歳の高校2年生にソフトドリンクを買って来る様に命じた後に殺害。その後現場近くで商店を営む鄭一家宅に上がり込み、13歳と10歳の子供を含む家族4人を殺害した。ここまでで禹は一時間あまりの間に4集落で住民47人を殺害している。

禹は翌日の午前2時頃まで付近一帯でカービン銃を乱射するなど殺戮を続け、5つの集落で57人を殺害、35人の人々を殺傷した。

禹が早い段階で郵便局に押し入って電話交換手をカービン銃で射殺したのは外部との連絡を絶つ事が目的と考えられている。実際にこれほどまでの大規模な無差別大量殺人が発生していたにも関わらず、その一報が外部に伝わったのは事件発生後1時間以上も経った22時40分だった。そして武装した警官が事件発生現場に到着したのは更に遅れて23時50分頃だったが、この時には既に禹は付近の集落での殺人をほぼ終えた後であり、警察の対応は完全に後手に回った形となってしまった。

武装警察隊が到着した後、禹は武装警官により山に追い込まれた。日付が変わって4月27日午前3時45分頃、既に57人を殺害した禹は残りの手榴弾2発の安全ピンを抜くと、最後の犠牲者となった人質一家3人と爆死した。最後の村では犠牲者24人。

影響

現職の警察官による大量殺人に加え初動捜査の遅れから被害を拡大させたとの非難が高まり、当時の劉彰順内閣の責任ばかりか政権を掌握したばかりの全斗煥大統領への非難にまで及ぶ恐れもあった。このため徐廷和内務部長官が事件発生直後に辞任し、後任として盧泰愚が就任したことで盧にとっては政界への足掛かりをつかむ第一歩となった。また当時の宜寧警察署長が事件発生中に遊興で不在だったことから職務怠慢で起訴されたものの、最終的には無罪が確定している。

関連項目

外部リンク