祥子内親王
祥子内親王(しょうし(さちこ)ないしんのう、生没年不詳)は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族、歌人。後醍醐天皇第2皇女、母は阿野廉子(新待賢門院)。後村上天皇の同母姉妹[1]。伊勢斎宮(最後の斎宮として知られる)。
元弘3年11月(1333年12月)、父後醍醐天皇の斎宮に卜定。しかし3年後の建武3年(同じく1336年)、兵乱により建武の新政が崩壊し、伊勢に群行することなく[2]野宮を退下。ここに大来皇女より約660年(一説には豊鍬入姫命より約1,400年)続いた斎宮は終わりを告げた。
その後は、正平7年(1352年)に吉野に至り、後醍醐天皇の塔尾陵に参拝。のち落飾して、周徳上人と号し、保安寺に住んだ。生没年等、詳細な情報は不明である。
歌を能く詠み、『新千載和歌集 』に1首[3]、『新葉和歌集』に16首[3]、祥子内親王の詠歌が残っている。
参考文献
- 山中智恵子『続斎宮志』砂子屋書房、1992年。 ISBN 4-7904-9221-4
- 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年。
- 芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。
脚注
- ^ 斎宮卜定され野宮にある頃に秀歌を詠んでおり、15歳以上になっていたと思われることから姉と推定される。
- ^ 伊勢に群行したのは、愷子内親王が最後であった(1264年)。
- ^ a b 祥子内親王 千人万首