智識寺跡

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知識寺智識寺、ちしきじ)は、河内国大県郡にあった古代仏教寺院。現在の大阪府柏原市太平寺2丁目付近の仏教遺跡がその跡と言われている。

概要

知識寺の東塔の塔心礎石だったとされる石神社の手洗い石

知識と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立された寺院を「知識寺」「智識寺」と称したが、その中でも河内の知識寺は後に「日本三大仏」に数えられた廬舎那仏を安置するなど、その規模の大きさで知られていた。7世紀後半に茨田宿禰を中心とした知識によって創建されたと伝えられ、河内国大県郡の一部に相当する柏原市の遺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘されており、知識寺の跡であるとする有力説の根拠とされている。また、知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石が現在でも石神社に残されている。740年(天平12年)に聖武天皇が同寺に行幸して、廬舎那仏の姿と同寺を支える人々の姿に魅了され、後に東大寺盧舎那仏像を造像するきっかけになった。聖武天皇の娘の孝謙天皇749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)と756年(天平勝宝8年)に同寺に行幸している。こうしたことから、国家も同寺の保護に乗り出し、765年(天平神護元年)には封戸50戸が寄進され、863年(貞観5年)には修理料として新銭(饒益神宝)20貫文・鉄50挺が施入され、3年後には当時の河内守であった菅原豊持が「修理知識仏像別当」に任命されている。1030年(長元3年)には関白藤原頼通も同寺に参詣するなど、広く人々の信仰を集めていたが次第に衰退し、1086年(応徳3年)に建物が転倒して6丈の観音像が破壊された(『扶桑略記』)。以後、知識寺は荒廃し、鎌倉時代源頼朝の命によって太平寺に統合されたと伝えられている。

参考文献

  • 井上薫「智識寺(二)」(『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年) ISBN 978-4-642-00509-8
  • 江谷寛「知識寺」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-040-31700-7
  • 吉田靖雄「知識寺」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3

外部リンク