矢野五右衛門

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宇喜多秀家を匿った矢野家が設立した石碑。

矢野 五右衛門(やの ごえもん)は、戦国時代武将豪族関ヶ原の戦いで敗れて逃走した宇喜多秀家を匿った人物として知られる[1]。諱は重昌(しげまさ)。五右衛門は通称

概要

五右衛門は美濃国揖斐郡白樫村(現・岐阜県揖斐川町)の、約250の領地を持つ郷士であったとされる[1]。以下は矢野家の伝承である。

関ヶ原の戦い直後に五右衛門は落ち武者狩りとして山中を捜索していた[1]。その時、供回り数名と共に逃走していた武将に出くわした[2]。五右衛門はその容姿から、敗走中の高名な武将に違いないと考えて槍を向けて近づいたが、武将は名乗ることも助命を請うこともしなかった。伴の家臣と五右衛門が数回の問答をした後、五右衛門はこの落武者が西軍の大物であった備前宰相・57万石の太守宇喜多秀家である事を確認した[2]。五右衛門は潔い秀家の態度に感服したとされ、約40日もの間秀家を自宅に匿った[2]。この潜伏期間中に秀家は次の二首の歌を詠んだ。

『武も運も皆つき果てし美濃の国かかる浮世と如何で志ら樫』
『山の端の月の昔に変わらねど我が身のほどは面影もなし』

五右衛門は秀家を逃すための情報を収集し、秀家の正室豪姫が実家である前田氏に引き取られるとの報を聞きつけた[2]。五右衛門とその妻は秀家を重病人に変装させ、数多くの関所を越えて大阪の前田家の屋敷に到着し、秀家は妻と再会することが出来た[2]。この礼として、秀家は五右衛門にかつて自分が豊臣秀吉から賜った朱印状と、黄金30枚を重昌に与えた[2]。五右衛門は帰郷し、子孫は代々続き現在に至っている[2]

その後秀家は島津氏を頼るが、のち徳川方に引き渡された。しかし島津氏前田氏の懇願で助命され、八丈島へ流罪となった。[3]

脚注

  1. ^ a b c 『宇喜多秀家と矢野家』- 小川治揖斐町
  2. ^ a b c d e f g 岡山市連合町内会会報 第14号』16頁
  3. ^ その後宇喜多氏浮田に改姓し、秀家→秀高→秀正→秀親→秀保→秀徳→秀道→秀英→秀邑→秀種→秀監→秀萃→秀一→秀臣と続き現在に至る。 - 新人物往来社刊『豊臣一族のすべて』

参考資料