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田原節子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たはら せつこ
田原 節子
プロフィール
本名 田原 節子
出身地 日本の旗 日本東京
生年月日 1936年
没年月日 2004年8月13日
最終学歴 早稲田大学文学部
職歴 日本テレビ
配偶者 田原総一朗
担当番組・活動

田原 節子(たはら せつこ、1936年(昭和11年) - 2004年(平成16年)8月13日)は、日本アナウンサー随筆家。旧姓、古賀、村上(むらかみ)。 田原総一朗の2番目の妻。ウーマンリブ運動家でもあった。歌手古賀さと子は実妹。

来歴・人物

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東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、日本テレビに入社。アナウンサーとして17年、その後はCMプロデューサーとして10年勤務した。その間、一度目の結婚出産を経験するが、1976年、「容色が衰えた」としてアナウンス室からの配置転換命令を受ける。しかし、納得できずに提訴[1]勝訴する。総一朗との共著『私たちの愛』(講談社)によれば、局内ではもともとウーマンリブに関わっていた事が問題となっていたとのこと。CM制作部に異動後はプロデューサーとして活躍。1980年代に作った民放連啓蒙広告覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?」のコピーは有名となる。節子の次女・江川綾子[2]によれば、節子は「何でも手当たり次第に読みたがり、めいっぱい知りたがり、心から出会いを喜び、不条理に対してはとことん怒りまくる。そんなよく笑い、よく怒る、生命力の塊のような面白い人」であったという[3]

総一朗とはダブル不倫の関係だったが、総一朗の妻・末子が1983年にがんで死去[4]。これを受け、1989年に結婚。交際当時はお互いの家庭を壊さないように不倫関係を続けた。田原事務所代表を務める。1998年10月に炎症性乳がんを発症。余命6ヵ月の宣告を受ける。再発転移を繰り返し、抗がん剤治療を行いながら6年近く生存。闘病中は乳がんを中心に医療、女性問題などに関する執筆講演活動を活発に行う。結婚から闘病に至るいきさつは前掲『私たちの愛』に詳しい。

2004年8月13日多臓器不全のため死去。享年68歳。葬儀築地本願寺で執り行われ、葬儀委員長は電通成田豊が務めた。墓所は小平霊園

総一朗は、節子ががんと宣告された時・亡くした時の二度自殺を考えたが思いとどまる。闘病中は献身的に節子に尽くし、「きみが人生のすべてだった」と言い切った。2007年納骨[5]

著書

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共著

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  • 田原総一朗、田原節子『私たちの愛』 講談社、2003年1月。ISBN 978-4062115551

脚注

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  1. ^ 「放送デスクメモ(76・五~六月)」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第107号、日本マスコミ市民会議、1976年10月1日、54 - 58頁、NDLJP:3463768/29 
  2. ^ シリーズ対談 田原節子のもっと聞きたい ゲスト・江川綾子さんがんサポート、2003年12月
  3. ^ 我が母ストーリー~母、節子によせて えがわあやこ
  4. ^ 妻を2度亡くした田原総一朗氏の失意「何もわからなかった」”. NEWSポストセブン (2021年4月15日). 2024年9月20日閲覧。
  5. ^ 鎌田 實「がんばらない&あきらめない」対談 医療に必要なのは方程式ではなく、患者と医師のコミュニケーションだ ジャーナリスト・田原総一朗 × 鎌田 實”. がんサポート. 闘病記. QLife (2011年11月). 2018年11月19日閲覧。

外部リンク

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