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王伉

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王 伉(おう こう、生没年不詳)は、三国時代武将政治家益州蜀郡の人。(蜀漢)に仕えた。『三国志』蜀志「呂凱伝」に記録がある。

蜀漢を興した劉備の死後、建寧郡の雍闓と連絡を取り、蜀に対して反乱を起こした(「李恢伝」)。雍闓は呉より永昌太守に任命されて、永昌郡の境に攻め寄せてきた。このとき、永昌郡と成都との連絡は閉ざされ、永昌郡の太守も交代の途中で不在であった。王伉は永昌郡の府丞の職にあったが、現地の豪族で郡吏の呂凱と協力し、雍闓の侵攻を防ぎきった。

225年春3月、丞相諸葛亮は反乱した南中の4郡の鎮圧のため南征を行った。雍闓は高定の部下に殺害され、4郡は平定された(「後主伝」)。

諸葛亮は劉禅に上奏し、呂凱と王伉達の功績を賞賛した。王伉は永昌太守になり亭侯に封じられた。

小説『三国志演義』では、王伉は当初から永昌太守として登場し、呂凱は彼の参謀という設定となっている。諸葛亮が南征により雍闓達を討伐し、南蛮の奥深く侵攻するとき、案内役として呂凱を推挙している。