源能有
源 能有(みなもと の よしあり、承和12年(845年) - 寛平9年6月8日(897年7月11日))は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。
経歴
同じ文徳天皇の皇子である惟仁親王(清和天皇)の兄でありながら、生母の身分が低かったこともあり、皇嗣からは早い段階で除外されていたらしい。第一親等の皇族でありながらも、当時の慣例に倣って源姓を賜り臣籍降下した。能有の兄弟の多くがこれと同様の道をたどり、その子孫は後世文徳源氏と呼ばれる。
能有は朝廷の儀礼や政務に通じた有能な人物として知られ、貞観4年(862年)に従四位上に直叙されると、大蔵卿を経て貞観14年(872年)には28歳にして早くも参議に任ぜられて公卿に列すなど、徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。その能力は藤原基経からも評価されてその娘を娶っている。この間、元慶元年(877年)従三位、元慶6年(882年)中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左衛門督・検非違使別当と武官を兼帯した。
宇多朝に入っても、引き続き寛平2年(890年)正三位、寛平3年(891年)大納言と昇進する。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には左大臣源融・右大臣藤原良世と先任の上卿2人がいるにも関わらず撰国史所総裁を務めていること、寛平7年(895年)には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っている。いずれも、本来は摂関もしくは一上が務める慣例であったことから、寛平3年(891年)の藤原基経没後は、大臣の官職にあった源融・藤原良世がいずれも70歳を越えた高齢であったこともあり、能有が事実上の政権担当者として寛平の治を推し進めたと考えられている。この年の暮れには五畿内諸国別当に任じられ、翌寛平8年(896年)には平季長を山城国問民苦使に任じて、その報告を元にして院宮王臣家による土地の不法拡大を禁じる太政官符などの農民保護政策を打ち出している。この年には右大臣に昇るが、これを極官として、翌寛平9年(897年)6月8日に病により薨去。享年53。最終官位は右大臣正三位左近衛大将兼東宮傅。同年6月16日に贈正二位[1]。
人物
菅原道真と親しく、道真の詩文集『菅家文章』には能有に頼まれて自宅の竹を能有邸に移植した時の漢詩や能有追悼の漢詩が収録されている。また、宇多天皇も『寛平御遺誡』の中で右大臣(能有)を失った衝撃について触れている[2]。
系譜
能有の男系の子孫には、後代保元の乱で活躍した源季実などが出ている。一方、女系に目を転じると、娘の昭子は藤原忠平の妻として師輔らを産み、同じく柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいる。即ち、師輔以降の藤原摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになる。
他の官職
脚注
参考文献
- 森田悌『平安時代政治史研究』(吉川弘文館、1978年) ISBN 4-642-02088-8
- 遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年) ISBN 4-87644-131-6